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横浜地方裁判所小田原支部 平成元年(わ)30号 判決 1996年3月08日

主文

被告人を無期懲役に処する。

未決勾留日数中一八〇〇日を右刑に算入する。

本件公訴事実中、Aに対する強盗殺人の点については、被告人は無罪。

理由

【被告人の経歴及び犯行に至る経緯】

一  被告人は、菓子製造販売業を営む父B、母C子の四男として岩手県久慈市で出生し、昭和二八年三月、中学校を卒業後、菓子製造店に職人見習いとして勤務したが、昭和三一年ころ退職し、上京して燃料店の住み込み店員などをして働いた後、昭和三六年ころ帰郷して漁船員などをし、昭和三八年四月ころから、神奈川県足柄下郡箱根町の建設会社で土木作業員として働くようになり、以後、同県小田原市、平塚市、足柄上郡松田町等において、土木作業員、鳶職等の仕事を転々としてきた。

被告人は、昭和六三年一一月五日から、同県足柄上郡《番地省略》所在の甲野建設株式会社(代表取締役D)に土木作業員として勤務し、同所所在の作業員宿舎(以下「宿舎」という。)に居住していた。

被告人は独身である。

二  被告人は、酒癖が悪く酔うと人にからむ性癖があることなどから、同年一二月一九日、甲野建設を解雇され、給料の清算金一〇万三四三〇円を受領して宿舎を退去し、同日から、小田原市浜町の簡易旅館乙山に宿泊した。

被告人は、同月二三日朝、所持金のほとんどを宿泊代、飲食代、パチンコ代等に費消したため、乙山の経営者E子から一〇〇〇円を借り、荷物を全て乙山に預けたまま金を工面しに出掛け、理容業を経営するFや、以前の勤務先である丙川土木の経営者Gに借金を申し込んだが断られ、小田原駅の改札口等で野宿し、同月二四日、Hから一〇〇〇円、Iからタクシー代を含めて一万五〇〇〇円を借り、I方付近のコインランドリーで夜を明かし、同月二五日、Jから一〇〇〇円を借り、同じ建設現場で働いたことのあるK方に泊まらせてもらおうと思い、K方を探したが見付からなかったため、小田原市浜町の海岸で野宿した。

被告人は、同月二六日、以前の勤務先である丁原建材工業有限会社を訪ね、代表取締役Lに働かせて欲しいと申し込んだが、正月明けころから来るように言われたため、Lから一万円を借りて辞した。その後、Kが居住する小田原市扇町の戊田荘を探し出し、Kの子供が来る同月二九日までKの居室に泊まらせてもらうことになった。

被告人は、同月二七日午前七時ころ、K方を出て小田原市内でパチンコをするなどし、夕方、K方に戻り、同月二八日午前七時ころ、K方を出て松田町に行き、M方を訪ねた後、I方に電話をかけたが、Iが不在であったため、夕方、K方に戻った。

三  被告人は、同月二九日午前七時ころ、Kから二〇〇〇円を借りて別れ、同日午後六時ころ、I方を訪ね、岩手県に居住する姉N子に電話をかけて一〇万円の送金を依頼し、送金があったら返済すると言ってIから一万円を借り、小田原市浜町の旅館甲田荘(宿泊代三五〇〇円)に宿泊し、同月三〇日、O子から二〇〇〇円を借り、下宿業を営む乙野に泊まろうとしたが断られたため、同市内の御幸ヶ浜海岸で野宿した。

被告人は、同月三一日も金を工面しようとしたが、誰からも金を借りることができず、夕方には所持金が約三〇〇〇円になり、旅館の宿泊代に足りなかったため、午後八時過ぎころ、借金を申し込もうとして、甲野建設の宿舎に居住する同社の作業員P(当時三九歳)を訪ねた。

被告人は、Pの居室で酒を飲み、借金を申し込んだが断られ、Pが酔ったすきに財布から札を抜き出したところ、これに気付かれて札を返した。被告人は、Pから文句を言われたため、一旦宿舎から出て、カップ酒を二本買って宿舎に戻ったが、Pに追い返されたため、再び宿舎を出た。

【犯罪事実】

被告人は、Pを殺害して金員を強取しようと決意し、昭和六四年一月一日午前零時三〇分ころ、宿舎内のPの居室に戻り、酒に酔ったPに対し、所携のメリケン(平成元年押第四三号の4)で左顔面を数回殴打し、同所にあったカッターナイフ(同号の2。以下「本件カッターナイフ」という。)で顔面、頸部等を切り付け、その反抗を抑圧した上、Pが所有する現金約二万八〇〇〇円を強取した。引き続き、被告人は、右犯行を隠蔽するために、宿舎に放火してPを焼死させようと企て、Pを宿舎内の台所兼食堂(以下「台所」という。)へ運び、台所の床等に灯油約一・八リットルを撒き、その場にあった新聞紙を折って所掲のライター(同号の5)で火をつけ、灯油を撒いた床に放り投げ、その火を燃え上がらせた。その結果、火は内壁等に燃え移り、よって、Pら四名が現に住居に使用している宿舎一棟(軽量鉄骨平板トタン葺平家建、床面積六九・四平方メートル)を全焼させて焼燬し、そのころ、同所において、Pを右火災により焼死させて殺害した。

【証拠】《省略》

【法令の適用】

罰条 強盗殺人の点は、平成七年法律第九一号による改正前の刑法(以下「改正前刑法」という。)二四〇条後段

現住建造物等放火の点は、同法一〇八条

科刑上一罪の処理 改正前刑法五四条一項前段、一〇条(一罪として重い強盗殺人罪の刑で処断)

刑種の選択 無期懲役刑

未決勾留日数の算入 刑法二一条

訴訟費用の不負担 刑事訴訟法一八一条一項ただし書

【争点に対する判断】

(争点)

被告人は、起訴状公訴事実第一(以下「小田原事件」という。)について、事件当時、K方にいたのであって、犯人ではないと主張する。

また、被告人は、起訴状公訴事実第二(以下「松田事件」という。)について、Pから金を盗んでいない、Pに対し、メリケンで左顔面を殴打したり、カッターナイフで顔面、頸部等を切り付けたことはない、宿舎に火をつけていないとして、犯行を全面的に否認している。

このように、いずれの事件においても、被告人と犯行との結び付きが争われている。

そこで、以下、松田事件につき被告人を犯人と認定した理由を補足して説明するとともに、小田原事件につき被告人を無罪と判断した理由を述べる。

(略語等)

一  認定事実及び供述に係る事実関係の日付けについて、年を表示しない場合には、昭和六三年を指す。

二  被告人及び証人の供述については、当公判廷における供述と公判調書中の供述部分を区別せずに、被告人の公判供述、A証言などと表示し、公判期日の回数を表示する場合には、たとえばA第3回証言などと表示する。

三  検察官調害は「検面」、警察官調書は「警面」と表示し、書証の作成日付けについて、昭和六四年及び平成元年作成のものは年の表示を省略する。たとえば、被告人の昭和六四年一月二一日付け警察官調書は、一月二一日付け警面と表示する。

四  医師永田正博、同船尾忠孝及び神奈川警察科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)技術吏員戸叶和夫作成の各鑑定書は、それぞれ永田鑑定書、船尾鑑定書、戸叶鑑定書と表示し、各鑑定書及び当該鑑定人の証言を一括して引用する場合には、「永田鑑定」などという。

五  括弧内の甲及び乙の番号は、証拠等関係カードの検察官請求番号を、弁の番号は、同カードの弁護人請求番号をそれぞれ示す。

(松田事件)

第一松田事件の概要

一 犯行が発覚した経緯

Qの検面(甲一六〇)、Rの警面(甲一七一)及び火災(焼死)発生報告書(甲九四)によれば、Qは、昭和六四年一月一日午前零時三〇分ころ、初詣の帰途、自宅西側の甲野建設の方向から煙が立ち上がっているのを発見し、付近に住むS子に一一九番通報を依頼したこと、同日午前零時三二分ころS子から通報を受けた消防署は、現場に急行して消火作業にあたり、同日午前零時四八分ころ鎮火したが、宿舎は全焼し、宿舎内から甲野建設の作業員P(以下「被害者」という。)の焼死体が発見されたことが認められる。

二 本件現場の状況

実況見分調書(甲九六、九七)及び文末に掲記した各書証によれば、次の事実が認められる。

1 本件現場は、JR東海御殿場線上大井駅から南南西約二〇〇メートル、三嶋神社から東北東約一四〇メートルに位置している。

本件現場の東側は、幅員四・一メートルの舗装道路を隔ててQ方に接し、南側は、高さ二・三六メートルの万能鋼板塀を隔ててT方に接し、北側は、幅員四・八メートルの舗装道路を隔ててU方に接し、さらに本件現場付近は、一般住宅、アパート等が密集する住宅地となっている。

2 宿舎は、甲野建設所有の敷地四三三平方メートルの南西隅にあり、宿舎東側には事務所兼宿舎及び倉庫が、宿舎北側には便所、風呂場及び物置小屋が建てられている。

宿舎は、南北約一二・六メートル、東西約五・四メートル、高さ約三三・五メートルの軽量鉄骨平家建で、外壁はトタン、内壁はベニヤ板であり、東側二か所に二枚引サッシ戸の出入口がある。

宿舎の内部はベニヤ板で間仕切りされており、南側から、V及びWが居住する九畳大の居室、一二畳大の台所、被害者が居住する一〇畳大の居室、Xが居住する九畳大の居室になっている。床面は、台所がゴムマット敷、居室が畳敷、廊下が板敷である。

3 本件火災後の宿舎の状況等

(一) 宿舎内部は全焼し、内壁は黒く焼きはがれ、各部屋の間仕切り板壁は一部が燃焼して落下し、出入口は全壊してはずれ、屋根、外壁等建物の枠組だけが残存していた。

天井部に至る上部外壁には、全体に燻焼の跡が認められた。

(二) 台所の状況

(1) 台所は、灯油の臭気が強く、南側及び北側の間仕切り壁は全焼炭化して間柱が露呈し、西側の二枚引サッシ腰高窓のガラスは全壊してはずれ、サッシ枠だけが残存していた。

(2) 台所の出入口から南西方向約六〇センチメートルの床上に、頭部を南南西、下肢を北北東に向けた状態で被害者の焼死体があった。死体の頭頂部は、南側壁面から約四五センチメートル、東側壁面から約一一五センチメートルに位置し、右足踵が出入口真近から約四六センチメートルに位置していた。

死体の上部には、全身を覆いかぶせるように外壁のトタン(縦約八九センチメートル、横約一八〇センチメートル、厚さ約二ミリメートル)があり、トタンを取り除くと死体は仰向けであった。

死体の顔面から左手上腕にかけて、折り畳んだ状態の折り畳み椅子が二脚あり、椅子の座席部分で顔面が隠れていた。死体の前大腿部には、上辺が欠落したアルミサッシ枠の左辺先端部がのり、左足内側大腿部には、区切りサッシ枠の先端部が接していた。死体股下には、空缶やガラス片が散乱していた。

死体に残存する着衣や死体付近床面からは強い灯油臭がした。また、死体の頭部と南側壁面との間は、強く燃焼して炭化しており、右部分の残焼物からは強い灯油臭がした。

(3) 台所の出入口から西方約一二〇センチメートル、死体の左側に石油ストーブがあったが、電源スイッチは断であった。

死体の右側から頭部に沿って、ガスコンロ一個が横になった状態で立っていたが、ガスコンロの点火つまみ三個はいずれも断であった。

出入口付近には、赤色、白色及び薄緑色のポリ容器三個が溶解していた。

(4) 台所の南側壁付近の床面五か所から血痕が採取された。これらの血痕はいずれも人血で、血液型はA型であった。(甲一四五)

(三) 被害者の居室の状況

被害者の居室の天井はすべて燃焼して落下し、出入口付近の床面にはバール一本(平成元年押第四三号の3)があった。

被害者の居室内の残焼物からは、財布二個が発見された。(甲一三〇)

掛け布団の裏側には、〇・八センチメートル×〇・六センチメートル大の血痕が付着していた。右血痕は人血で、血液型はA型であった。(甲一四五)

三 死体の状況、死因等

1 永田正博証言、死体検案報告書(甲一四八)、死体解剖立会報告書(甲一四九)、写真撮影報告書(甲一五〇)及び永田鑑定書(甲三三〇)によれば、医師永田正博が、昭和六四年一月一日、被害者の死体を検案した結果、次の所見を得たことが認められる。

(一) 外景所見

(1) 被害者の死体は、身長一七一センチメートル、体重五二キログラム、全身四度(ほとんど炭化に近い状態)、背面の一部が三度の火傷状態で、ボクサー型の体位をとっており、眼瞼、眼球結膜に溢血点はなく、角膜は混濁していた。

(2) 鼻腔及び口腔内には血液が混ざった泡沫煤煙を認めた。

(3) 肩部左右上方から背部に生活反応のある微細水疱が形成されていた。

(4) 左顔面全体に焼化した血液が泥状に付着していた。

(5) 右鼻翼、鼻腔から鼻根部に及ぶ四・〇センチメートル×二・四センチメートルの開する開放性の切創があり、鼻軟骨は切截されて露呈していた。右切創は、頭部方向に向かってY字型に開し、正中線を走って右下方に向かい、周囲は桃赤色を呈して生活反応があり、創底は鼻腔内に達し、創縁は整鋭で、黒褐色の焼化した血液が付着していた。

(6) 右上唇、右口角から、(5)記載の切創にほぼ連続して、四・〇センチメートル×一・三センチメートルの辺縁がほぼ鋭の開放性の切創があり、その深さは〇・七センチメートルで、創底は皮下組織を切截し、生活反応が認められた。

(7) 前頸部には、薄い帯状の索溝様に見える所見があり、これは下顎頤部下方四・〇センチメートルの部位で甲状舌骨上方に幅〇・九センチメートル、深さ〇・一センチメートルであり、右は右耳垂下方四・五センチメートルの部位付近で消失し、左は下顎三角下角二・三センチメートルの部位で消失していた。

前頸部で下顎頤部下方五・〇センチメートルの部位で、甲状舌骨直上方に、左右径一三・五センチメートル、上下径六・〇センチメートルの開放切創があり、その創縁は鋭、創角は右が鋭、左が不明で、創洞は胸部側から下顎側に向かい、深さは二・〇センチメートルで、前頸部の皮下組織、筋組織、毛細血管は切断され、舌骨が露呈していた。

(8) 左上腕内側で左肘より九・〇センチメートル上方に六・〇センチメートル×二・〇センチメートルの切創があり、創縁は鋭で、皮下組織、筋肉、小血管を切截していた。

(9) そのほか、左眉部直上方に切創があり、右頭頂部に頭皮剥離切創があった。

(二) 内景所見

(1) 鼻軟骨を切截し創底が鼻腔内に達する切創によって起こった出血は、後咽頭から上部気道に流れ込み、その血液によって気道が半閉塞状態となっていた。

(2) 一酸化炭素ヘモグロビンによって桃赤色流動性となった血液の一部は食道内に流入し、気道内には吸入された煤煙が確認された。

(3) 上部気道には、熱性炎の所見がみられ、咽・喉頭、上部・下部気道、肺門部にわたって粘稠液を混じた煤煙があり、煤煙は細気管支にも認められた。

(4) 血中一酸化炭素ヘモグロビンは、五・八パーセントであり、通常の火災による焼死者の濃度(四〇ないし七〇パーセント)に比べてかなり低かった。

(5) 血液型はA・MN型である。

血中エチルアルコール濃度は一ミリリットル当たり二・七二ミリグラムであり、相当の酩酊状態にあった。

2 永田正博証言、死体検案報告書追補(甲一五一)、死体再検案立会報告書(甲一五二)、写真撮影報告書(甲一五三)及び永田鑑定書(甲三三〇)によれば、医師永田正博が、平成元年一月九日、被害者の顔面及び頭部を再度検案した結果、次の所見を得たことが認められる。

(一) 左頬部で左眼瞼から約一・五センチメートル下方に、二・〇センチメートル×一・二センチメートル大の表皮紫赤色の変色が認められ、この部位の顔面表皮を剥離して検索すると、左眼輪筋外角部から一・〇センチメートル耳寄りの皮下組織に、長径五・五センチメートル、幅二・六センチメートルの皮下出血が認められた。

(二) 左耳翼上方で後頭部寄り三・〇センチメートルの部位に、六・〇センチメートル×五・〇センチメートル大の皮下出血を伴った打撲を思わせる外傷があり、頭皮を切開すると、打撲部位直下方の皮下組織と一部筋層に、五・五センチメートル×五・〇センチメートル大の薄層出血巣があった。

(三) 後頭部に、いずれも長さが一・〇センチメートルに満たず、幅のほとんどない鋭利な切創が合計九個あった。

3 右各創傷の成傷原因及び凶器

永田鑑定によれば、被害者の顔面の切創は、唇の横からまゆ毛の上の辺りまで一本の線を描いたような形になっており、深さがあまり深くないことなどから、成傷器は非常に刃の薄い鋭利な有刃器であると考えられること、前頸部及び後頭部の切創も同じ成傷器によると考えても矛盾しないこと、左頬部及び左耳翼上方の打撲傷は、皮下筋層に薄層の出血があることから、厚さ、大きさともそれほど大きくない硬度のある物体で直撃されたことにより形成されたものであることが認められる。

4 死因

永田鑑定によれば、被害者の直接死因は焼死であるが、競合する原因として、創底が鼻腔内に達する鼻部の創傷により発生した出血が気道内に流入し、気道が半閉塞状態となり、呼吸困難を起こしたであろうことも否定できないことが認められる。

四 被害者の身上関係、被害前の行動

被害者は、昭和四七年に結婚し、子供三人をもうけたが、昭和五七年に協議離婚後、各地の建設現場で土木作業員として働き、昭和五八年ころから甲野建設に勤務し、宿舎に単身で居住していた。被害者は、正月や盆にも宿舎で過ごすのが通例であり、昭和六四年の正月も宿舎にいると話しており、本件当時、他の作業員の帰省後、一人で宿舎に滞在していた。(甲一五七、一八九)

五 小括

以上のように、被害者の顔面には、一本の線を描いたような形状で生活反応のある切創があり、前頸部には長さが約一三・五センチメートルもの切創があるほか、後頭部等にも多数の切創が存在することからすると、何者かが被害者に傷害を負わせたものと推認することができる。

また、台所やその他の居室には火の気がなく、死体の着衣及びその周辺の床面から強い灯油臭がしたことに照らすと、宿舎は放火されたものと推認され、燃焼の程度が最も激しかった死体の頭部と南側壁面との間付近が火元と認められる。

第二捜査の概要

一 被告人の逮捕に至る経緯

田畔豊、宇井稔、高橋和彦及び古賀博憲の各証言、前掲Y子の検面、Z子及びA'子の各警面、緊急逮捕手続書等によれば、被告人の逮捕に至る経緯について、次の事実が認められる。

1 本件発覚後直ちに、松田警察署(以下「松田署」という。)に捜査本部が設置され、警部高橋和彦が中隊長(以下「高橋中隊長」という。)として捜査に従事することになった。

2 巡査部長田畔豊は、宿舎の火災発生により、交通整理のために本件現場に赴いていたところ、巡査から「甲川太郎」と名乗る者(被告人)が火災の第一発見者である旨の報告を受けた。

田畔は、火災発見当時の状況等を捜査するため、昭和六四年一月一日午前一時ころ、被告人を交通事故処理車に乗せて松田署に任意同行し、参考人として事情聴取をした。被告人は、田畔に対し、本名を名乗り、「三嶋神社に初詣に来て、たまたま現場付近を通りかかっただけである。火災現場の近くには行っていないから、現場がどこであるかは知らない。」と供述した。ところが、被告人は、事情聴取の最中、松田署に出頭していた甲野建設の代表取締役Dに会釈をしたため、以前甲野建設に勤務していたことが発覚したが、甲野建設を辞めてから宿舎には全く近づいていないと供述した。(乙四二)

他方、捜査官が付近住民から事情聴取をした結果、被告人が宿舎付近をうろつき、甲野建設の宿舎が火事だ、人が一人焼け死んでいるなどと言って騒いでいたことが判明し、被告人の供述が虚偽であることが明らかになった。

そこで、取調官がさらに事情聴取をしたところ、被告人は、同日午後九時ころ、白色のポリ容器の灯油を撒いて火をつけ、被害者を焼死させたと供述した。松田署の捜査官は、被告人を宿舎に同行したところ、ポリ容器の位置、灯油を撒いた場所等の被告人の供述が現場の状況と一致したことから、同日午後一一時四〇分、被告人を殺人及び現住建造物等放火の被疑事実で緊急逮捕した。

二 逮捕当時の被告人の着衣、所持金等

1 被告人が、昭和六四年一月一日、松田署に任意同行された時の着衣等は、次のとおりである。被告人は、同日の逮捕後、右着衣等を任意提出し、これらが領置された。(甲一一六、一一八)

(一) 防寒ジャンパー(平成元年押第四三号の6。紺色で襟に毛が付いているもの)

(二) 作業ズボン(同号の7。紺色)

(三) 野球帽(同号の8。紺色でつば部分に白線が入ったもの)

(四) 下着(半袖)

(五) 丸首シャツ(長袖)

(六) トックリセーター(同号の11。紺色、丸首長袖)

(七) 靴下(同号の12。黒色)

(八) サンダル(同号の9。黒色短靴の甲部と踵部とを切り取ってスリッパ状にしたもの。以下「スリッパ」という。)

(九) タイツ(ワインレッド色)

(一〇) パンツ(水色)

(一一) 革製バンド

2 被告人の着衣等には、パンツに被告人と同一血液型であるA型の血液が付着しているほかには、血痕の付着が認められなかった。(甲三一九)

被告人の防寒ジャンパーの右脇下の右袖部から右脇部の縫合部は、八・七センチメートルにわたり糸がほつれた状態になって開いていた。(甲一一七)

3 被告人は、逮捕当時、現金二万八八八五円(一万円札一枚、五千円札一枚、千円札一三枚、五百円硬貨一枚、百円硬貨三枚、五〇円硬貨一枚、一〇円硬貨三枚、五円硬貨一枚)、簡易ライター一個等を所持していた。(甲一一九)

第三情況証拠の検討

一 本件発生直前における被告人の現場所在

被告人は、甲野建設に勤務して宿舎に居住していたが、一二月一九日、同社を解雇されて宿舎を退去し、以後、本件当夜まで宿舎を訪れることはなかった。

ところで、被告人は、同月三一日夜、被害者を訪ねて居室で一緒に酒を飲んだことについては一貫して自認しており、第六〇回公判においても、午後九時過ぎから午後一一時過ぎころまで被害者の居室にいたと供述している。

また、前掲Qの検面並びにB'、C'及びD'の各警面によれば、被告人は、昭和六四年一月一日午前零時過ぎころ、酒に酔った様子で、三嶋神社と宿舎付近との間を行ったり来たりしていたことが認められる。

このように、被告人は、犯行に極めて近接した時刻に、宿舎及びその周辺に所在していたことが認められる。

二 被告人の本件発生後の言動

前掲E'子及びY子の各検面並びにF'、Z子及びA'子の各警面によれば、被告人は、火災発生後にも宿舎付近をうろうろしており、同日午前零時四〇分過ぎに火災を告げる大井町役場の町内放送が流れるのに先立ち、F'方のシャッターを火事だと言いながら叩いたこと、火事の様子を見に来た付近住民に、甲野建設の宿舎が燃えている、人が一人死んでいるようだなどと言っていたことが認められる。

このように、被告人は、宿舎を出た後もその周辺にとどまっていたのみならず、いち早く、宿舎の火災や内部で被害者が焼死したことを認識していることを示す言動をしていたものである。

三 被告人の所持金

被告人は、逮捕当時、現金二万八八八五円を所持していた。

ところが、前記犯行に至る経緯のとおり、被告人は、一二月二三日以後、知人等に借金を申し込み、野宿をしたりK方に泊まらせてもらったりし、同月三一日には所持金が旅館の宿泊代に足りなかったものであり、その後、逮捕されるまでの間、被告人に収入があったという事実は認められない。

他方、捜査報告書(甲一七五)によれば、被害者は、同月二九日、甲野建設から掛け買い分を差し引いた給料八二円を支給され、三万円を前借りし、同僚から借金をするなどして、合計五万八二円の収入があり、飲食代等に費消後、約二万七七五二円の所持金を有していたと推認されるにもかかわらず、被害者の居室内の残焼物から発見された財布には、札が入っていなかった。

四 小括

以上のように、被告人が、本件発生直前に宿舎にいた被害者を訪ね、宿舎から出た後も周辺にとどまり、犯行を認識しているかのような言動をしたこと、その上、逮捕当時、本件発生前に比べて多額の所持金を有していたことなどは、被告人の犯人性を強く疑わせ、かつ、後記の自白の内容を裏付けるものである。

第四自白の検討

このような情況の下で、被告人は、捜査段階において、犯行を全面的に自白している。そこで、以下、自白の任意性、信用性を検討する。

一 自白の任意性

1 被告人は、公判廷において、捜査段階の自白は、取調官から、捜査官を田舎に送って兄弟を会社で働けないようにする、老齢の母親を連れてくる、即座に刑務所に送り込むなどと繰り返し脅され、郷里の身内の生活まで脅かされるのを恐れる余り、誘導されるまま身に覚えのない犯行を認めたものであり、検察官に対しても自白を維持せざるを得なかった旨供述し、弁護人は、被告人の自白には任意性が認められないと主張する。

2 そこで検討すると、宇井稔、高橋和彦、古賀博憲及び石川好久の各証言並びに文末に掲記した各書証によれば、被告人の自白の経緯について、次の事実が認められる。

(一) 松田署では、警部補古賀博憲(以下「古賀取調官」という。)が被告人の取調べを担当し、巡査部長石川好久(以下「石川補助官」という。)が補助官として取調べに立ち会った。

被告人は、昭和六四年一月一日午後六時ころから古賀取調官の取調べを受け、当初、三嶋神社に初詣に来て、たまたま現場付近を通りかかっただけであると供述し、宿舎付近に来た経緯についてあいまいな返答しかしなかったが、無職で金がなかったと供述しながら現金約二万八〇〇〇円を所持していたことを追及されて、被害者から金を盗んだことを認めるに至った。さらに、被告人は、宿舎に放火したのではないかと追及されて、灯油を撒いて放火した事実を認めるに至り、同日午後九時ころ、「甲野建設を辞めた後、所持金を全部費消し、被害者に金を借りようと思って宿舎に行った。被害者に借金を申し込んだが断られ、被害者が酔って寝たすきに財布から金を盗んだ。金を盗んだことがばれて被害者に文句を言われたので、被害者が酔って寝込んだのを見計らって宿舎に戻り、被害者を焼き殺すため、台所の出入口にあった白色のポリ容器の灯油を出入口左側の床に一升位撒き、台所のごみ箱の横にあった新聞紙に所持していたライターで火をつけ、新聞紙を床の上に置いて放火した。」旨供述し、「自分がやったこと」と題する書面を作成した。(乙二六)

被告人は、同日、殺人及び現住建造物等放火の被疑事実により緊急逮捕され、弁解録取手続において、「被害者に金を無心したが断られたので、強引に金を取り、被害者を焼き殺すために火をつけて燃やしたことに間違いない。」と供述した。(乙二七)

(二) 被告人は、同月二日、古賀取調官の取調べにおいて、前日と同旨の供述をした。(乙四三)

また、被告人は、同日、宇井稔検察官(以下「宇井検察官」という。)の取調べを受け、「被害者に借金を申し込んだが断られ、一旦外に出た。宿舎に戻ってもう一度頼むと怒鳴り返され、被害者が酔ったすきに財布から札だけを抜き取った。すぐに被害者が気付き、どろぼう野郎などと言うので、しらふになれば犯行がばれるから殺すしかないと思った。そこで、出入口付近にあった灯油を一升位床に撒き、台所の新聞紙にライターで火をつけ、その火が灯油に燃え移って燃え上がるのを見て逃げた。」旨供述したものの、被害者の顔面を刃物で切り付けていないかと質問されても、良く思い出してみると供述するにとどまった。(乙二八)

(三) 被告人は、同月三日、勾留質問において、殺人及び現住建造物等放火の被疑事実は間違いないと供述した。(乙二九)

(四) 被告人は、同月四日午前九時ころから古賀取調官の取調べを受け、被害者の顔面を切り付けていないかと質問され、「俺が焼き殺したことは間違いない。それでいいじゃないか。」などと供述していたが、古賀取調官から説得され、午前一〇時過ぎころ、灯油を撒く前に被害者の左顔面をメリケンで三回殴打したと供述するに至り、「俺のやったこと」と題する書面を作成した。(乙三〇)

また、被告人は、同日午後、被害者の顔面、頸部、後頭部及び左腕部をカッターナイフで切り付け、被害者を居室から台所まで引きずり、バールで被害者の右腕を引っ掛けてから金を盗んだと供述し、「俺れのやったこと」と題する書面を作成した。(乙三一)

(五) 被告人は、同月一〇日、宇井検察官の取調べにおいて、被害者の左顔面をメリケンで殴打し、カッターナイフで顔面、頸部等を切り付け、台所の灯油のあるところまで引きずり、金を奪い、灯油を台所の床に撒き、新聞紙にライターで火をつけて宿舎に放火し、被害者を焼き殺したと供述し、同月一一日、同旨の上申書を作成した。(乙一八、三二)

また、被告人は、同月一三日、一四日及び一七日の古賀取調官の取調べにおいても、右の犯行を認めた。(乙三ないし五)

なお、被告人は、同年二月一日、初めて弁護人と接見し、その後の取調べにおいて、小田原事件の被疑事実については一旦否認したが、松田事件の被疑事実については間違いないと供述した。

(六) 被告人は、同月八日、宇井検察官から起訴状の原案を示され、起訴状記載の各公訴事実は間違いないと供述した。(乙三九)

(七) 被告人は、同月九日、小田原事件及び松田事件により起訴(小田原事件では勾留中、松田事件では求令状)され、松田事件の勾留質問において、公訴事実を認めた。(乙四〇)

3 右のように、被告人は、任意同行後、殺人及び現住建造物等放火の被疑事実を全面的に認め、その後間もなく強盗殺人の事実を認め、捜査段階において、小田原事件を否認しても、松田事件の自白をほぼ一貫して維持していたものである。しかも、被告人の検面及び警面には、いずれも被告人の署名、指印がされており、上申書は、いずれも被告人の筆跡で作成されている。

また、被告人は、第一八回公判において、古賀取調官及び石川補助官から暴行を受けたことはなく、脅迫の点についても、同人らから追及されても別に怖いことはなかったが、最後はいやになってやりましたと言ったと供述するとともに、宇井検察官から脅されたり暴行を受けたことはないと明言している。

以上の自白の経緯、被告人の公判供述などに照らせば、被告人が取調官から暴行や脅迫を受けたという事実は認められず、他に、本件全証拠によっても、自白の任意性に疑いを差し挟むに足りる事実は認められない。

したがって、自白に任意性がない旨の弁護人の主張は採用できない。

二 自白の信用性

1 犯行に至る経緯について

被告人が、甲野建設を解雇された後、生活費に困り、知人等を訪ねては借金を申し込むなどした経緯に関する自白は、一二月二八日、二九日の行動、特にI方を訪れた日時について混乱している部分が存在するものの、大筋において裏付けられている。

また、被告人は、「宿舎の被害者の居室を訪ね、途中で煙草を買いに出た。被害者に借金を申し込んだが断られた。被害者の財布から金を盗んだが、これを見付けられてさんざん罵られ、一旦宿舎を出た。しかし、何とか金を作りたいという気持ちが強かったので、カップ酒を二本買って宿舎に戻ったが、被害者に追い返された。被害者が、金を持っているのに、これだけ頼んでも一銭も出さないので腹を立て、金を盗もうと決意した。被害者の酔いが醒めれば、警察に金を盗んだことを訴えられると思い、盗んだと疑われないようにするには殺すしかないと考えた。」などと、何度も宿舎を出入りする複雑な行動や、被害者を殺害して金を盗もうと決意するに至った心理経過を具体的に供述している。

したがって、犯行に至る経緯についての自白には、信用性が認められるというべきである。

2 金を盗んだ点について

被告人は、松田事件による逮捕直前から一貫して金を盗んだことを認め、一月一〇日付け検面(乙一八)において、被害者の財布から札だけを抜き取った、札を盗んだ時、自分の札入れは空で、持っていたのは小銭だけだったと供述している。また、被告人は、公判廷においても、第五五回公判(平成七年一月六日)で否認に転じるまで、被害者の財布から札を盗んだことを認め、逮捕されるまで被害者から盗んだ金は使っていないと供述している。

しかも、被害者の居室内から発見された財布には札が存在していなかったことからすると、財布から札を盗んだという自白は、客観的状況と矛盾しないものである。

さらに、逮捕当時、被告人が本件発生前に比べて多額の所持金を有していたことは前記のとおりであり、これらの点を合わせ考えると、被害者から金を盗んだという自白には、信用性が認められるというべきである。

3 メリケンで殴打した点について

(一) メリケン及び打撲傷の発見経緯

(1) メリケンからは指紋の検出がされていないが、被告人は、メリケンを路上で拾い、作業ズボンのポケットに入れて所持していたことについて、捜査段階及び公判廷において一貫して認めている。

しかも、三浦博、田畔豊、宇井稔、高橋和彦、古賀博憲、石川好久及び永田正博の各証言、捜査報告書(甲一〇四)、死体再検案立会報告書(甲一五二)並びに写真撮影報告書(甲一五三)によれば、メリケン及び打撲傷の発見経緯について、次の事実が認められる。

すなわち、被告人は、逮捕当時、被害者の顔面、頸部等を切り付けたことはないと供述していたが、昭和六四年一月四日午前、被害者の左顔部を指輪のつながった鉄の固まり(メリケン)を装着した右手拳で殴打し、メリケンを任意同行の際に乗せられた交通事故処理車の後部座席下に隠したと供述した。(乙三〇)

そこで、松田署の捜査官が、同日午前一〇時四五分、同署中庭に駐車中の交通事故処理車の後部座席下を探索したところ、被告人の供述どおりメリケン一個が発見され、同日、これが領置された。なお、同月一日から同月四日までに、警察官以外の一般人が当該車両に乗車したことはない。

また、被害者の顔面左頬部及び頭部付近は、四度の火傷状態で炭化していたため、同月一日の死体検案においては打撲傷等の形跡が発見されていなかったところ、宇井検察官は、メリケンの発見後、医師永田正博に対し、被害者の左頬部の確認を依頼した。永田は、同月九日、被害者を再度検案した結果、右頬部等に新たに損傷を発見し、左頬部を切開したところ、皮下組織に皮下出血があるのを認めた。

永田鑑定によれば、メリケンは硬度のある物体であり、これを皮下出血の成傷器と考えても矛盾しないことが認められる。

(2) 以上のメリケンの発見経緯に照らすと、被告人は本件発生時にメリケンを所持していたものと推認することができる。

そして、被告人の供述に基づきメリケンが発見され、その後の再検案で被害者の左頬部の打撲傷等が発見され、メリケンをその成傷器と考えても矛盾しないことが明らかになったという経緯にかんがみると、メリケンで被害者の左顔部を殴打したという自白は、それまで捜査官が知り得ず、かつ、客観的状況とも矛盾しない事実を含むものであるから、極めて信用性が高いというべきである。

(二) なお、仮に、メリケンが犯行と関係ないとすれば、被告人が参考人として松田署に任意同行された時点で、わざわざこれを隠したことは不自然である。それにもかかわらず、被告人は、公判廷において、持っているとまずいと思ってメリケンを隠したと供述するだけで、メリケンを隠した理由について何ら合理的な説明をしない。

4 本件カッターナイフで切り付けた点について

(一) 本件カッターナイフの発見経緯等

(1) 被告人の第一八回公判供述、宇井稔、高橋和彦、古賀博憲及び石井秀一の各証言等によれば、次の事実が認められる。

捜査官は、当初、成傷器が鋭利な刃物であること以外に、凶器の特定に至るだけの判断材料を有していなかった。また、昭和六四年一月一日の実況見分時には現場が散乱しており、被害者の居室の出入口付近からバールが発見されたものの、本件カッターナイフは発見されていなかった。ところが、被告人は、同月四日午後、被害者をカッターナイフで切り付け、カッターナイフを台所の廊下にある酒箱に入った道具袋の中に捨てたと供述した。なお、捜査官は、被害者にはバールで殴られた痕跡がないことから、バールと犯行との関連について特に意識していなかったが、被告人は、被害者の腕をバールで引っかけた後、バールを被害者の居室の出入口付近に置いたと供述した。(乙三一)

そこで、同月五日、被告人の立会いの下で宿舎の実況見分をしたところ、被告人の指示説明どおり、台所の出入口付近の木製酒箱に入った道具袋の中から本件カッターナイフが発見され、同日、これが領置された。

本件カッターナイフは、全長二四・八センチメートル、刃体の長さが八・三四センチメートル、刃の幅が一・八センチメートル、刃の厚さが〇・〇五センチメートル(甲一〇三)という刃の薄い鋭利な有刃器であり、永田鑑定によれば、これを被害者の顔面、頸部等の切創の成傷器と考えても矛盾しないことが認められる。

(2) 以上のように、被告人はメリケンの使用について供述したのと同じ日に本件カッターナイフを使用したことを供述し、右供述に基づき本件カッターナイフが発見され、これを被害者の顔面等の切創の成傷器と考えても矛盾しないことが明らかになったものであり、被告人の供述によって初めて、切創と矛盾しない成傷器が特定されたことになる。

右の経緯に照らすと、本件カッターナイフで被害者を切り付けたという自白には、信用性が認められるというべきである。

(二) 被害者の切創と犯行の態様との整合性

被告人は、一月一〇日付け検面(乙一八)において、「被害者のこめかみ付近を狙ってメリケンで殴打した後、うつ伏せになった被害者の後頭部をカッターナイフで二、三回切り付けた。被害者がうめいて仰向けになったので、夢中で被害者の顔面中央部を下から上に二回切り上げ、頸部を右側から左側に切った。その直後、被害者がうめきながら左手で被告人を掴むような動作をしたので、とっさに被害者の左上腕部の内側を一回切り付けた。被害者は唸っていたが、しばらくすると黙り込んだので、様子を見るためにカッターナイフの先で後頭部付近を何回か突付いた。」旨供述しているが、右の犯行の態様についての自白は、一連の行為を自然かつ具体的に供述するものであり、被害者の顔面、後頭部、頸部、左上腕部等の切創の部位、状況とも合致し、これらの形成過程を合理的に説明するものである。

(三) 血痕との関係

(1) 鑑定書(甲三二一)によれば、本件カッターナイフには血痕の付着が認められないが、被告人の自白中には、カッターナイフを水道で洗ったという部分がある。

ところで、実験結果についての回答(甲三二三)と題する書面によれば、本件カッターナイフと同種のカッターナイフに血液を付着させ、付着後二分、五分、一〇分経過後に水道水で三〇秒間洗浄したところ、いずれも血痕が残存することなく洗い流されることが確認されている。また、加藤和美の警面(甲一七〇)によれば、消防士加藤和美は、宿舎の消火活動の際、台所の窓枠近くの流し台の水道の蛇口からかなりの勢いで水が流れ出ているのを発見し、蛇口を閉めたことが認められる。

これらに照らすと、本件カッターナイフに血痕が付着していないことをもって、自白に合理性がないということはできない。

(2) 弁護人は、逮捕当時の被告人の着衣、所持金等に血痕が付着していないのは不自然である旨主張する。

しかしながら、前記認定の現場の状況のとおり、宿舎内からは若干の血痕が採取されたにとどまり、犯行に際し、多量の血液が飛散したことを認める証拠がないことからすると、被告人の着衣等に血痕が付着していないことをもって、直ちに不自然であるということはできない。

5 放火の点について

(一) 被告人の供述過程

被告人は、宿舎の放火方法について、一月二日付け警面(乙四三)において、「台所の床に灯油を一升位撒き、ゴミ箱の横にあった新聞紙を一部とり、横二八センチメートル、縦一〇センチメートル位に折り、ライターで火をつけ、床の上に放り投げた。新聞紙の火が床に燃え移るのを見届けた。」旨供述し、一月一〇日付け検面(乙一八)では、「台所の出入口の左側壁付近に灯油を三回位振りかけた。六つ折りにした新聞紙の先にライターで火をつけ、下を向けて火が燃え上がる状態にし、床に放り投げると、火が床の灯油に燃え移った。」旨供述し、一月一三日付け警面(乙三)では、「被害者を台所のストーブの所まで引きずり、台所の床に灯油を撒いて、ライターで火を付けた新聞紙をそこに置き、台所の出入口の戸を閉めて出た。」旨供述している。

右のように、被告人は、灯油を撒いた場所、新聞紙を投げた場所等について具体的に供述しており、しかも、右供述は、若干の変遷があるものの、台所の出入口左側(南側)の壁付近に灯油を撒き、ライターで火を付けた新聞紙を放り投げ、その火を燃え上がらせたという主要な部分について、捜査段階の早期から一貫している。

しかも、被告人は、第一回公判(平成元年四月一四日)以後、第五七回公判(平成七年六月三〇日)に至るまで、火をつけたこと自体は認めていたものである。

(二) 現場の状況との整合性

台所の出入口付近からはポリ容器の溶解片が三個発見されているところ、G'、D及びVの各警面(甲一七四、一八八、一九九)によれば、一二月二六日ころ、宿舎には一八リットル用(満タンで二〇リットル入り)ポリ容器三個分の灯油が配達され、Vがこれを台所の出入口内側に置いたこと、同月二九日は甲野建設の仕事納めで、宿舎に居住する被害者以外の作業員は同日までに帰省したことが認められ、本件発生当時、宿舎内には相当量の灯油が残っていたものと推認することができる。

また、前掲Vの警面及び捜査報告書(甲一七六)によれば、被害者及び甲野建設の専務H'は新聞を定期購入しており、読み終えた新聞紙を台所のゴミ入れの横の床上に置いていたことが認められる。

さらに、被告人が灯油を撒いて火のついた新聞紙を放り投げたという場所(台所の出入口左側の壁付近)は、燃焼の程度が激しく火元と認められる場所と極めて近接している。

このように、自白の内容には、現場の状況との整合性が認められる。

(三) 放火方法からみた犯行の可能性

前記のとおり、灯油及び新聞紙は台所に存在しており、被告人は逮捕当時ライターを所持していたことに照らすと、自白において放火の手段とされた物は、いずれも被告人が利用し得たものということができる。

また、捜査報告書(甲一二六)によれば、仮設宿舎の燃焼実験をした結果、被告人の供述する放火の方法によって出火が生じた可能性があることが認められる。すなわち、仮設宿舎(土台は角材、壁面はベニヤ板及びコンパネ、床面はコンパネ及びボード、床マットはゴム製線入りマット、間柱はたる木、外壁はカラートタン。床面積四・九五平方メートル)の中にポリ容器及び木製酒箱を置き、仮設宿舎の南側壁面に灯油一・八リットルを撒き、ガスライターで点火した新聞紙を壁面から床面に流れた灯油の上に放置したところ、一〇秒後、床面の灯油に着火し、二〇秒後、南側壁面が独立燃焼を開始し、壁面が焼失し、ポリ容器が溶解し、一分後には、炎の高さが二八〇センチメートルになり、木製酒箱に延焼したことが認められる。

(四) 放火の動機

被告人は、宿舎に放火した動機について、犯行の発覚を防ぐために被害者を殺し、被害者が火の不始末で焼死したように見せ掛けようとした、被害者は、酔って寝込んでしまうとなかなか目を覚まさないので、火事で逃げ遅れたとしても不思議には思われないだろうと考えた、ストーブから出火したように見せ掛けるには、台所付近に火をつけなければいけないと思い、被害者を台所まで引きずったなどと供述し、宿舎に放火しようと決意した心理状態や放火するまでの行動につき具体的かつ自然に説明している。

以上によれば、宿舎に放火したという自白には、信用性が認められるというべきである。

6 犯行後の状況について

被告人は、犯行後、宿舎付近をうろついていたものであるが、その理由について、宿舎が燃えるかどうか不安に感じたため、宿舎付近から立ち去らなかったと供述する。

ところで、前記のとおり、被告人が、犯行の発覚を防ぐために放火したのであれば、宿舎が燃え上がるかどうかは罪証隠滅の目的が達せられるか否かに関わるものであり、宿舎が燃え上がるかどうか不安に感じ、周辺にとどまったという被告人の心理状態は、十分了解可能である。

7 小括

以上のとおり、自白中には、メリケン及び本件カッターナイフの発見経緯でみたように、被告人の供述によって初めて捜査官が把握し得た事実が含まれる。しかも、被告人の自白は、放火方法などの主要な部分について、捜査段階の早期からほぼ一貫しており、現場の状況とも合致する上、具体的で臨場感に富み、迫真性が認められる。

これらの点にかんがみると、自白には十分信用性が認められるというべきである。

第五被告人の弁解の検討

これに対し、被告人は、公判廷において、松田事件について否認しているので、以下、被告人の弁解内容について検討する。

一 弁解内容の変遷過程

被告人の公判廷における弁解内容は、次のように転々と変遷している。

1 被告人は、第一回公判(平成元年四月一四日)において、小田原事件については否認し、他方、松田事件については、メリケンを作業ズボンのポケットに入れて所持していたこと、被害者から現金二万八〇〇〇円を盗んだこと及び台所の出入口付近に灯油を撒き、火をつけた新聞紙を放り投げて宿舎に火をつけたことは認めたが、メリケンで被害者を殴打したこと、カッターナイフで被害者の顔面、頸部等を切り付けたことは否認した。また、被告人は、火をつけたとき、被害者は相当に酔って居室内の炬燵で寝ており、焼け死んでも仕方がないと思ったと供述し、未必的ながら殺意を認めた。

2 被告人は、第二五回公判(平成三年一一月二二日)において、メリケンで殴打したこと、カッターナイフで切り付けたこと、バールを使用したこと、台所に引きずったことはないが、それ以外は供述調書に書いてあるとおりであるとして、被害者から金を盗んだこと、灯油を撒いて火をつけたことを認めたものの、被害者を焼き殺すつもりはなかったと供述し、殺意を否認した。

3 被告人は、第三五回公判(平成五年二月一九日)において、被害者の財布から金を盗んで宿舎から出たが、まずいと思って宿舎に戻り、台所の間仕切りに灯油をかけ、新聞紙にライターで火をつけて投げた、被害者は居室の炬燵に入って寝ていた、灯油をかけた所と新聞紙を投げた所は一・五メートル位離れていた、被害者は当然逃げてくれると思ったと供述し、火をつけたことは認めたが、検察官から、何のために火をつけたのかと質問されても、わからないと言ってその理由を明らかにしなかった。

そして、被告人は、第三六回公判(同年三月二六日)において、火をつけた目的などない、新聞紙だけを燃やすつもりであり、新聞紙以外の物に火が燃え移るとは思わなかった旨弁解し、現住建造物等放火の故意を否認した。

4 被告人は、第五五回公判(平成七年一月六日)において、検察官から質問され、被害者の居室で酒を飲んだことは認めたが、被害者に借金を申し込んだこと、金を盗んだことについて否認に転じるとともに、灯油を撒き、新聞紙に火をつけて捨て、宿舎を出た後に、三人組の男が宿舎の出入口から出て来るのを見た、三人は以前丙山建設で働いていた者で、そのうちI'という人物は後に他の二人に殺されたと述べて、あたかも三人組が真犯人であるかのような供述をするに至った。なお、検察官は、第五六回公判(同月二〇日)において、被告人のいう三人の男の氏名がI'、J'及びK'であることを明らかにした。

5 被告人は、第五七回公判(同年六月三〇日)において、それまで認めていた金を盗んだこと、火をつけたことを否認し、第五九回公判(同年八月一八日)においても、台所に灯油を撒いたこと、新聞紙に火をつけたことを否認し、以後、犯行を全面的に否認している。

6 右のとおり、被告人の弁解内容は、時間が経過するにつれて変遷し、その都度否認の度合いが強まり、遂には、起訴から六年以上経過した第五七回公判において、犯行を全面的に否認するに至った。しかも、被告人は、供述内容を転々と変遷させながら、その理由について何ら合理的な説明をしない。

このような被告人の弁解の変遷過程は、それ自体極めて不合理で、不自然なものというべきである。

二 三人組を目撃したという弁解について

1 前記のとおり、被告人は、起訴後六年を経過して初めて、あたかも三人組が真犯人であるかのような供述をし始めたものであり、それまで捜査段階でも公判廷でも右のような主張を一切していない。

被告人は、当時酔っぱらっていたため、三人組を目撃したことを思い出せなかった、平成元年五月ころ、J'とK'がI'を殺害して逮捕されたという新聞記事を読んだが、三人組が真犯人ではないかという疑いを抱いたのは平成四年三月ころになってからであると供述する。

しかしながら、松田事件の嫌疑で取り調べられ起訴された被告人が、真実三人組を目撃していながら、そのことをこれほど長期間思い出さなかったということは極めて不自然である。また、被告人は、平成四年ころ宇津弁護人(同年死亡)に三人組の話をしたと供述するものの、その後幾度も機会がありながら公判廷で供述しなかった理由を追及されても、明確な返答をしない。

さらに、三人組を目撃した状況についての被告人の供述内容は極めてあいまいであり、真に被告人の記憶に基づく供述であるとは措信し難い。

2 証人J'及び同K'は、いずれも、一二月三一日から昭和六四年一月一日にかけて丙山建設の宿舎におり、甲野建設の宿舎付近に出掛けたことはない、J'もK'もI'を嫌っており、後にI'を殺害したのもそのためであるから、J'らがI'と一緒に出歩くことなどあり得ないと供述する。

他方、被告人は、検察官からJ'らの供述のどこが嘘であるかを質問されても明確な返答をせず、検察官に追及されてようやく、証言内容が一応嘘になると供述するにとどまっている。

3 このように、三人組を目撃したという被告人の弁解は、極めて不自然であり、関係者の供述にも合致していない。

三 小括

以上によれば、被告人の弁解は、到底措信することができないというべきである。

第六結論

以上検討したところによれば、被告人が松田事件の犯人であると認めるに十分であり、これに対する被告人の弁解は信用することができない。

(小田原事件)

第一公訴事実等

一 小田原事件の公訴事実の要旨は、次のとおりである。

被告人は、昭和六三年一二月二八日午後一一時一三分ころ、神奈川県平塚市南金目七九七番地の二付近路上で丁川交通株式会社所属のA(当時四四歳)が運転するタクシーに乗車し、Aを殺害して金員を強取しようと決意し、同県小田原市早川一丁目二〇番地の二早川漁業協同組合(以下「漁協」という。)前路上において、Aに停止を命じ、同日午後一一時四九分ころ、同所において、Aに対し、矢庭に所携のペティナイフ(後掲果物ナイフと同じ)でその左頸部、左肩部、左側頭部を数回突き刺し、よって、同月二九日午前三時五六分、同県伊勢原市下糟屋一四三番地丁野大学病院において、Aを左内頸動脈切断により失血死させて殺害したが、その際、動転の余り売上金を強取するに至らなかった。

二 小田原事件について、本件全証拠中、被告人と犯行を結び付ける主要な証拠は、捜査段階及び公判廷におけるKの供述並びに被告人の捜査段階における自白であり、その他の証拠は、自白の裏付けとして、あるいは自白の信用性が認められることを前提として、初めて証拠としての価値を有するものである。

そうすると、小田原事件の公訴事実が認定できるかどうかは、Kの供述の信用性、被告人の自白の任意性、信用性いかんにかかっていることになる。

そこで、以下において、小田原事件の事実関係を概観した上、まず、Kの供述及び被告人の自白を除いて、被告人と犯行を結び付けることができる証拠があるか否かを検討し、次いで、Kの供述の信用性、自白の任意性、信用性を順次検討することとする。

第二小田原事件の概要

一 被害者の身上関係、被害前の行動

1 L'、M'及びN'の各警面(甲七三、七五、七七)によれば、次の事実が認められる。

被害者A(以下「被害者」という。)は、丁川交通に勤務するタクシーの運転手である。

被害者は、一二月二八日午後一〇時五〇分ころ、JR東日本東海道線平塚駅前で、その運転するタクシー(登録番号相模《省略》、以下「本件タクシー」という。)に同日の三二番目の乗客としてN'を乗車させ、同日午後一一時一〇分ころ、平塚市《番地省略》N'方でN'を降車させた。被害者は、その直後、丁川交通の無線指令室に金目回送という無線連絡を入れ、無線を担当していたM'から、平塚市内の焼肉店へ迎車に向かうよう指示されたが、二、三分後、小田原までの客を乗車させてもいいかとの無線連絡を入れ、M'の承諾を得た。本件タクシーは、小田原市早川一丁目二〇番地の二所在の漁協前路上(以下「本件現場」という。)に至った。

2 戸叶鑑定書(甲八五)及び科捜研技術吏員国分善晴作成の鑑定書(甲三八七)によれば、本件タクシーに設置されたタコグラフのチャート紙を鑑定した結果、本件タクシーは、①一二月二八日午後一一時八分から午後一一時一三分四〇秒まで空車状態であったこと、②同日午後一一時二七分四〇秒から午後一一時四〇分まで高速走行をしていたこと、③高速走行の途中で約三分三〇秒間、断続的に発進加速、減速停止を繰り返していたこと、④最終停止時間は同日午後一一時四九分四〇秒であることが認められる。

二 本件現場付近の状況

写真撮影報告書(甲一)及び実況見分調書(甲三)によれば、次の事実が認められる。

本件現場は、JR東日本東海道線早川駅の東方約一八〇メートルに位置する漁協前の幅員七メートルの市道(以下「市道」という。)上であり、東方に小田原漁港、南方に小田原西漁港があり、付近には魚市場、水産物関連業者店舗、一般住宅等が建ち並んでいる。

漁協の北側には鉄筋コンクリート四階建ての戊原マンションがある。

漁協とその南側の乙原マッサージ方との間には、幅員約四・四メートルの舗装道路(以下「脇道」という。)があり、脇道を約一〇〇メートル西進すると国道一三五号線に至る。

三 被害者の発見状況等

O'の検面(甲六六)、P'、Q'、R'子、S'及びT'の各警面(甲四五、四六、六五、六八、六九)並びに一一〇番受理状況報告書(甲六四)によれば、次の事実が認められる。

戊原マンション四階に居住するR'子は、一二月二八日午後一一時五六分ころ、自動車の警笛が長く吹鳴されるのを聞いて不審に思い、窓の外を見たところ、男性が、よろよろ歩きながら同マンションの出入口に近づき、出入口の屋根に隠れて見えなくなり、間もなく同マンションから出てきてよろよろ歩きながら本件タクシーの方へ行き、その途中、助けてくれと悲鳴を上げたのを認め、直ちに一一〇番通報をした。

その直後、市道を自動車で走行してきたO'は、本件現場に停車中の本件タクシーに気付いて近寄ったところ、漁協の壁に片手を付いて何かを吐いている被害者を発見した。O'が声をかけると、被害者は、強盗にあったから急いで救急車を呼んでくれというや、その場に座り込み、後ろに例れた。O'は、窓から様子を見ていたR'子に一一九番通報を依頼した。

被害者の左頸付近は横に大きく切れており、被害者が話すたびに頸の傷口から血が流れ出し、被害者は口からしきりに血の塊を吐いていた。

被害者は、救急車で丙田病院に搬送されて医師P'の治療を受けた後、丁野大学病院救命救急センターに転送され、医師Q'らの治療を受けたが、翌二九日午前三時五六分、同センター内において死亡した。

四 被害者の刺切創の状況等

U'及びQ'の各証言、死体検案報告書(甲四)、解剖立会報告書(甲五、六)、永田鑑定書(甲三一七)並びに鑑定書(甲二〇)によれば、次の事実が認められる。

1 被害者は、身長一七五・五センチメートル、体重七〇キログラムで、血液型はAB・MN型である。

2 被害者の刺切創の状況は、次のとおりである。

(一) 外景所見

左耳垂下方三・五センチメートルの部位で、下顎角より四センチメートル下方の左後側頸部に、上下径三・〇センチメートル、最大幅〇・九センチメートルの開放した刺切創があり、これに連続して、上下径三・五センチメートル、幅〇・八センチメートルの浅い切創(右切創は、医師Q'による治療のための切開創であることが認められる。)及び上下径一・七センチメートル、幅〇・二センチメートルの浅い切創がある。その創縁はいずれも鋭、創角は前頸側が鋭、後頭側が鈍で、創洞は内下方に向い、深さは二・五センチメートルまで計測できる。

左肩峰部より内方四・五センチメートル、左鎖骨上方二・八センチメートルの部位に、二・五センチメートル×一・〇センチメートルのほぼ縦軸方向の刺切創がある。その創縁は鋭、創角は鎖骨側が鋭、肩部側が鈍で、創洞は内下方に向い、深さは約九センチメートルである。

その他、左耳翼上方三・〇センチメートルの部位に、ほぼ横走する二・〇センチメートル×三・〇センチメートル、深さ一・二センチメートルの刺切創、左耳介辺縁内方一・〇センチメートルの部位に、ほぼ横走する二・二センチメートル×〇・四センチメートルの刺切創、左耳垂下方一・〇センチメートルの部位に、後頭側でやや弁状を呈する二・二センチメートル×〇・五センチメートル、深さ二・〇センチメートルの刺切創、左耳翼後方二・〇センチメートルの部位に、ほぼ横走する二・〇センチメートル×〇・三センチメートル、深さ二・八センチメートルの刺切創がある。これらはいずれも、創縁は鋭、創角は後頭部側が鈍、顔面側・耳側が鋭で、創洞は内下方に向いている。(甲六添付写真ないし参照)

また、右手拇指、右手人示指及び左手中指には防御創があり、左手人示指掌面側には浅い弁状創がある。

このように、被害者の刺切創は、左側のみに形成され、方向が概ね一定しており、いずれも創縁が鋭で、創洞が内下方に向いている。また、被害者の防禦創は軽微で少ない。

なお、永田鑑定書(甲三一七)には、被害者に加えられた力はほぼ一定であろうと記載されている。

(二) 内景所見

左後側頸部の刺切創は、第二頸椎左突起下方に創底を作り、周囲の組織を切断し、出血巣を作り、左内頸動脈及び左内頸静脈を切截断している。

左肩峰部の刺切創は、前斜角筋及び左大胸筋の一部を切断し、鎖骨下動脈を切截断し、周囲組織間出血を起こしている。また、成傷器の先端は左胸壁を高位置で刺通し、鎖骨と第一肋骨間を通過して左体側壁胸膜に深さ一・三センチメートル、幅〇・三センチメートルの刺切創を形成している。

左胸腔内へ刺通された成傷器によって、左肺上葉、肺尖部前側に〇・八センチメートル×〇・三センチメートル、深さ一・〇センチメートルの肺実質刺創が形成されている。

左肺損傷により、左血胸(左胸腔内の貯留血液は二四〇cc)が形成され、左無気肺及び巣状気腫がみられる。

3 死因

被害者の直接死因は、左内頸動脈切断による失血であり、競合死因は、左肺刺切創による左血胸である。加えて、損傷肺血管からの血液逆流による気道閉塞も否定できない。

五 本件タクシーの状況等

V'及びW'の各証言、検証調書(甲二)、実況見分調書(甲三)、写真撮影報告書(甲九)、拡大写真の送付についてと題する書面(甲三三九)、鑑定書(甲三三五、三五二、弁一八)、捜査報告書(甲三五三)並びに文末に掲記した各書証によれば、次の事実が認められる。

1 車両の状況

(一) 本件タクシーは、白色の事業用普通乗用自動車で、座席が前部と後部に分かれ、前部右側が運転席、同左側が助手席となっており、前後部の左右にそれぞれドアがある。前後部座席の間に障壁はない。

本件タクシーの車体の長さは四・六九メートル、幅は一・六九メートル、高さは一・四五メートルであり、車両内の床から天井までの高さは一・一六メートルである。

(二) 本件タクシーの停車状況

本件タクシーは、市道の左側車線に、市道中央線に沿ってほぼ平行に、エンジンを作動させたまま停車していた。

スモールランプ、右ウインカーランプ、左右の尾灯、車幅灯及び番号灯は点灯していたが、前照灯、屋根中央部の防犯灯は消灯していた。(甲三七九、三八〇)

排気管からは排気ガスが出ていた。

運転席ドアは全開し、左後部ドアは約一・五センチメートル開いており、助手席ドア及び右後部ドアは閉まっていた。なお、ドアロックが下りている場合には、運転席に取り付けられている手動ドアレバーを操作してドアを開閉させる仕組みになっているところ、検証時において、左右後部ドアロックは下りており、手動ドアレバーは床から一四・五センチメートル上がっていた。

窓ガラスはいずれも閉じられていた。

(三) 損傷

右後部ドア下方のTAXIと書かれた部分には、幅一・八センチメートル、長さ二七・五センチメートルの凹損が認められたが、他の部分には損傷がなかった。

(四) 血痕付着状況

運転席ドア下方のロッカーパネルに擦過状及び六条の血痕が付着しているほか、車両右側面部の、前輪タイヤホイル、前輪タイヤ、フロントフェンダー、センターボデーピラー、ロッカーパネル、後部ドア、後輪タイヤホイル、後輪タイヤ、リヤフェンダーに、針頭大から小豆大の微小で均質な飛沫血痕が多数付着していた。車両右側面部の血痕付着範囲は、幅が前輪タイヤホイルからリヤフェンダー中央部まで三・三メート、高さがロッカーパネルからセンターボデーピラーまで一メートルであった。これらの部分から採取された血痕はいずれも人血で、血液型は被害者と同一のAB型であった。

車両前部、後部、左側面部及び屋根部には、血痕は付着していなかった。

2 車両内の状況

(一) 検証時において、天井中央部に取り付けられている室内灯のスイッチは、ONとOFFの中間の位置にあり、いずれかのドアを開けると照灯し、全部のドアを閉じると消灯する状態になっていた。日報灯は消灯していた。

(二) 料金メーターは六七一〇円を表示し、料金を受け取っていない状態であった。(甲七三)

空車表示板は助手席ドア側に倒れ、実車状態になっており、迎車回送料金メーターは作動していなかった。

助手席座席上には、一二月二八日に西湘バイパスを通過した旨の道路公団の領収書があった。

運転席タコメーター下のフックには、釣り銭袋が吊り下がっており、同袋には現金合計二万五九二〇円が入っていた。助手席ダッシュボード内にあった黒革製二つ折りの財布には、現金合計五万五〇〇〇円が入っていた。

(三) 血痕付着状況

車両内には、次のとおり、多数の血痕が付着しており、これらの血痕はいずれも人血で、血液型は被害者と同一のAB型であった。

(1) 車両内前部

運転席の座布団、ヘッドレストカバー、座席シートカバー及び背もたれには、いずれも多量の血痕が付着していた。

運転席ドアの窓ガラスには、針頭大から小豆大の飛沫血痕、小豆大の滴下状、擦過状等の血痕が付着し、同ドアの窓ガラス開閉ハンドル付近、開閉フック付近、ポケット付近にも、滴下状及び擦過状の血痕が付着していた。

運転席床上のゴム製マットには、運転席ドア側に針頭大の血痕が多数付着しているほか、助手席側に粟粒大から鶏卵大の血痕が付着していた。

アクセル、ブレーキ、クラッチの各ペダル上、ハンドル、ヒーター足元吹出口などにも血痕が付着していた。

助手席座席上の運転席寄りには、縦二七センチメートル、横四三センチメートルの範囲で血痕が付着し、一部は剥離状になっていた。

(2) 車両内後部

右後部ドアの窓ガラスには小豆大の飛沫血痕が、同ドアロック部分には擦過状の血痕が付着していた。同ドア内側の取っ手には血痕が付着し、取っ手の下方に長く滴下した血痕があり、同ドア側の床上、リアフェンダー・ホイールアーチ部分一四か所にも滴下状の血痕が付着していた。

運転席背部の黄色ビニールの安全つりひもには、滴下状の血痕が付着していた。

後部座席の右側角部には、幅一五センチメートル、長さ二二センチメートルの範囲で飛沫又は滴下状の血痕が多量に付着し、一部は剥離していた。座席上の中央からやや左側の部分にも、量は多くはないが、粟粒大の血痕が付着していた。白色レースの座席シートカバー上には、座席中央部から左後部ドア方向に、ほぼ弓状で粟粒大から小豆大の飛沫血痕が八、九か所付着し、背もたれの左側のシートカバー下付近約三か所に血痕が付着していた。

床面にはゴム製マットが三枚敷かれているところ、運転席後方の座席直下には滴下状等の血痕が多数付着し、床面右側から中央部にかけて、幅二五センチメートル、長さ四〇センチメートルの範囲で血液が貯溜し、一部は水様になっていた。床面左側には幅二一センチメートル、長さ二六センチメートルの範囲で血液が付着又は貯溜し、一部は水様になっていた。

(3) 天井部分

運転席サンバイザー中央部の天井に長さ一・八ミリメートル、幅三ミリメートルの血痕、運転席ドア内側の上部に擦過状の血痕があるほか、運転席ヘッドレストの真上付近から左後部ドア方向に、長さ約三一センチメートルの範囲で、ほぼ直線上に点々と飛沫した血痕が付着し、その最後の部分は擦過状であった。

(四) 天井部はビニールレザー張りであるところ、右後部座席の天井部には、一方の端がやや曲がった長さ約二・二センチメートル、深さ約三ミリメートルの切断痕があり、これに続き、運転席方向に、長さ約二六センチメートルの擦過痕、線条痕が印象されていた。

(五) 運転席料金メーター下の灰皿内からマイルドセブンライトの吸殻六本、後部座席の左後部ドア内側約五五センチメートルの床上から、ハイライトの吸殻一本、助手席背部中央の灰皿内からキャビン85マイルドの吸殻一本及び使用済みのマッチ棒一本、右後部座席上から硫黄部が赤色のマッチ棒一本がそれぞれ発見された。

右各吸殻に付着していた唾液から血液型を鑑定したところ、マイルドセブンライトからはAB型、ハイライトからはA型が検出されたが、キャビン85マイルドに付着した唾液は付着量が僅少であったため、血液型が判定できなかった。(甲三八)

六 本件現場付近の血痕付着状況等

実況見分調書(甲三)、資料採取報告書(甲三四九、三五〇)及び鑑定書(甲三五二)によれば、次の事実が認められる。

1 車両右側付近の路上

(一) 車両から漁協までの市道上約四・二メートルには、多量、多数の血痕があった。すなわち、車両右側の運転席下方、市道中央線から南西方向に八〇センチメートル×四〇センチメートルの範囲で血液が貯溜し、さらに南西方向に四五センチメートル×三五センチメートルの範囲で血液が貯溜していた。

右の運転席下方の貯溜血液を取り巻くように、車両右側面部直近の路上には、右側面部の血痕と同形状の飛沫血痕が多数飛散していた。(甲三添付の写真⑲及び⑳(甲三九六にその拡大写真がある。)には、市道中央線の白線部分等の血痕が顕著に撮影されている。)

漁協南東角の置石や草花の植え込みにも、多量の血痕が付着していた。

(二) 運転席外側から漁協南東角方向の路上には、多数の血痕が付着し、血痕付着足痕跡が採取された。

(三) 車両前方には乗務記録票が放置され、用紙に血痕が付着していた。

2 脇道上

車両南西方向の漁協南東角から始まる脇道からは、約四三・五メートルにわたり血痕が一八個採取された。右血痕は、いずれも微小な滴下状で、ほぼ一直線上に連続しており、距離間隔が漁協南東角付近はほぼ一定で徐々に長くなっていた。

脇道上からは、血痕付着足痕跡は採取されなかった。

3 戊原マンション付近路上

車両北西方向の戊原マンション付近路上には、同マンション駐車場、入口階段まで約一八・七メートルにわたり血痕が点々と続き、右血痕に沿って血痕付着足痕跡が採取された。

これらの血痕は、方向が左右に乱れ、距離間隔が不規則で、ところどころに塊状のものがあった。

4 戊原マンション内部

戊原マンションの入口から三階までの階段の床面、手すり、ドア等には血痕が付着しており、同マンションの入口から二階までの階段からは、血痕付着足痕跡が採取された。

5 その他

車両左側、前部及び後部付近には血痕がなく、血痕付着足痕跡も採取されなかった。

6 以上の血痕はいずれも人血で、血液型は被害者と同一のAB型であり、戊原マンションの階段の足痕跡は、被害者の履物と一致した。

七 果物ナイフの発見状況等

佐々木信幸の証言及び検面(甲七〇)、遺留品発見報告書(甲一三)、果物ナイフ一丁(平成元年押第四三号の1。以下「本件ナイフ」という。)、鑑定書(甲一七)並びに凶器の販売先等についてと題する書面(甲四四)によれば、次の事実が認められる。

1 司法巡査佐々木信幸は、一二月二九日午前零時三五分ころ、本件現場付近を検索中、本件現場から南西約一〇〇メートル、国道一三五号線に面する小田原市X'方前歩道上で、本件ナイフを発見した。

本件ナイフは、刃がステンレス製、柄部が茶色木製で、全長二二・八センチメートル、刃体の長さが一二・四センチメートル、刃の幅の最も広い部分が二八・五ミリメートル、刃の厚さの最も厚い部分が一・四ミリメートルであり、刃体には登録「関一幸作」という文字が刻まれている。

本件ナイフの柄部の左側(左右は、刃を下向きにした状態で、柄部から刃先に向かっていう。)付け根部分は一部欠損(最長部分で長さ約二・八センチメートル、幅約一・八センチメートル)し、刃体が付け根部分から左側に約二八度曲がり、くの字型になっている。

2 本件ナイフの刃体の両面には、ほぼ全面に血痕が付着しており、柄部は刃元から一・五センチメートルの範囲まで血痕反応陽性を示した。刃元、刃体中央部、柄部から採取した血痕は、いずれも人血で、血液型は被害者と同一のAB型と判定された。

なお、刃体の曲がった部分と柄部との隙間部分や柄部の破断面に、血痕の付着が認められるという証拠はない。

3 本件ナイフと同種のナイフは、株式会社イトーヨーカドーが、昭和五三年ころから正広鍛工株式会社に発注して製造させ、卸元の三宝商事株式会社を経由して、全国一二七店舗(神奈川県内では二一店舗)及び系列店六〇店舗において小売価格一二八〇円で販売していたものであり、年間製造本数は約四〇〇〇本、年間販売本数は三五〇〇ないし四〇〇〇本であった。

八 犯人像、犯行状況等

ここで、以上の事実から推認される犯人像、犯行状況、犯行直後の犯人の行動等について検討する。

1 犯人像

前記認定の無線連絡状況、本件タクシーの停車状況及び車両内の状況に照らすと、犯人は、平塚市金目付近において、被害者が運転する本件タクシーに一二月二八日の三三番目の乗客として乗車し、本件現場まで走行した者であると推認することができる。

2 本件タクシーの走行経路、犯行時刻

前記認定の無線連絡状況、本件タクシーの走行状況及び被害者の発見状況に加えて、車両内には西湘バイパスの領収書が遺留されていたことに照らすと、本件タクシーは西湘バイパスを経由して本件現場に至ったこと、犯人が本件タクシーに乗車したのは一二月二八日午後一一時一四分ころ、本件タクシーが本件現場に到着したのは同日午後一一時五〇分ころであり、そのころからR'子が一一〇番通報した同日午後一一時五六分ころまでに犯行が行われたことが推認できる。

3 犯行現場

(一) 前記認定の車両内の血痕付着状況のとおり、運転席は血まみれで、車両後部や天井には血痕が飛散していることからすると、犯人は車両内で被害者を刺していることが認められる。

(二) ところで、前記認定のとおり、車両右側面部及び車両右側付近の路上には多数の飛沫血痕が飛散しているところ、これらの血痕はどのような経緯で生じたのであろうか。

この点について、船尾鑑定書(甲三九二)には、車両右側面部及び車両付近路上に付着している飛沫血痕は、被害者の損傷部位から直接生じたものではなく、被害者の咳嗽による喀血によって生じたものと思考される旨の鑑定意見が記載されている。

同鑑定書は、その理由として、被害者の創傷の部位、程度などから判断すれば、受傷部位から周囲に血液が飛散することはないものと推測されること、車両右側面部及び車両付近路上に付着している飛沫血痕は、動脈損傷に直接起因するような散布状のものではなく、ほとんど孤立散在性で霧散しており、大きさも長径数ミリ内外以下の微小血痕であること、被害者の左肩部の刺切創は肺尖部を穿刺し気道内に閉塞性出血を惹き起しているため、被害者には死亡に至る間咳嗽による喀血があったものと推測されることなどを掲げている。

そこで検討すると、被害者の左肺には損傷があり、被害者が発見時に喀血していたことなどに照らすと、車両付近路上の血痕には、被害者の喀血によって生じたものがあることは認められる。しかしながら、車両右側面部の飛沫血痕は、均質で、高さ約一メートルの範囲というやや低い位置に集中しており、同一方向から飛散したことが窺われるものであるところ、さらに、右血痕直近の車両付近路上には、貯溜血痕を取り巻くように車両右側面部の血痕と同形状の飛沫血痕が多数存在していることにかんがみると、これらの広範囲にわたる飛沫血痕は同一の機会に生じたものではないかとも考えられる。

また、車両右前方には、被害者の血液が付着した乗務記録票が放置されていたが、これがどのような状況でその場に放置されたのかは明らかではない。

このような客観的な血痕付着状況等に照らすと、車両右側面部及び車両右側付近の血痕が被害者の喀血のみによって生じたものであるとにわかに断定することはできない。

4 成傷器

前記認定の被害者の刺切創の状態に照らすと、犯行に用いられた成傷器は、鋭利な片刃の刃器であると推認されるところ、永田正博証言によれば、本件ナイフの創縁、刃体の長さ、幅等を勘案すると、本件ナイフが成傷器であると考えても矛盾しない。

また、鑑定書(甲二三)によれば、前記車両内天井ビニールレザーの痕跡は、本件ナイフによって印象された可能性が強いことが認められる。

これに加えて、本件ナイフが犯行後間もなく本件現場付近で発見され、被害者と同一血液型の血液が付着していたことにかんがみると、犯人は、犯行の凶器として本件ナイフを使用した上、逃走過程でこれを投棄したものと推認することができる。なお、右のとおり、犯人が、犯行後直ちに逃走し、途中で本件ナイフを投棄したという状況の下では、犯人が、犯行後投棄するまでの間、本件ナイフを丁寧に拭き取るなどした事実は窺われない。

5 刺傷方法

永田鑑定は、被害者の刺切創について、その方向、深度、角度などからみて、被害者自身が作ったものとは考えられず、無防備で座している被害者の後方から半立位に近い状態の他人によって作られたものと思われ、被害者が立位であったり加害者と対峙した状態では、このような刺切創はできないとしており、右の鑑定結果に照らすと、犯人は、運転席に座している被害者の後方から、半立位に近い状態で被害者を刺したという可能性があることが認められる。

なお、永田鑑定は、被害者の防禦創が軽微で少ないこと、加害者は抵抗力の無い状態の被害者に対し、同等の外力を同方向に加えることが多いことからすると、本件において、被害者は初めに左肩部又は左側頸部後方に刺切を加えられ、これによって頸動静脈の損傷、左肺の損傷による血胸を起こして抵抗力を急激に奪われ、その後に側頭から耳部周囲の刺切創が作られたものと思考されるとしている。

6 犯人の逃走経路等

(一) 犯行の凶器とみられる本件ナイフが、脇道を通り国道一三五号線を右折した歩道上で発見されたこと、脇道上には血痕が付着していることに照らすと、犯人は脇道を通って逃走し、その際、犯人に付着していた被害者の血液が滴下したという可能性が考えられる。

他方、前記認定の被害者の発見状況並びに戊原マンション付近路上及び同マンション内部の血痕付着状況に照らすと、被害者は、犯人の逃走後、助けを求めて戊原マンション方向へ歩き、一旦同マンション内に入り三階まで昇った後、本件タクシーの方へ戻り、漁協の壁に片手を付いていたが、間もなくその場に倒れたことが認められる。

(二) 検察官は、論告において、脇道上の血痕は、被害者が助けを求めて歩き回った際に生じたものと推認できる旨主張し、右血痕は被害者に起因するものと思料される旨の鑑定意見が記載されている船尾鑑定書(甲三九二)を提出する。

しかしながら、右鑑定書は、被告人の着衣、帽子、履物などには、ジャンパーの左右袖口部分を除いて血痕をとどめていないことを前提としているものであるところ、後記のとおり、本件では、被告人の着衣等にどの程度の量の血液が付着していたかということ自体が必ずしも明らかではないのであるから、右鑑定書が前提としている血痕付着状況には疑問があり、右鑑定書をもって、直ちに、脇道上の血痕が被害者に起因することの裏付けとすることはできない。

しかも、前記のとおり、脇道上の血痕は、滴下状で、ほぼ一直線上に連続しており、血痕間の距離が徐々に長くなっていることからみて、国道方向へ進行する際に生じたものと考えられるのに対し、戊原マンション付近路上の血痕は、よろめきながら歩行したり歩行速度が乱れていることを窺わせるものであり、両者の形状は明らかに異なっている。

さらに、前記のとおり、同マンション付近路上からは血痕が付着した被害者の足痕跡が採取されているが、脇道上からは足痕跡が採取されていない。

なお、田原第四九回証言及び池第五二回証言によれば、捜査段階において、捜査官は、脇道上の血痕は犯人が凶器、手、着衣等に付着した被害者の血液を逃走過程で落としていったものであると判断していたことが認められる。

これらの点に照らすと、脇道上の血痕が被害者に起因するという検察官の主張はにわかに首肯し難く、その他、被害者又は犯人以外の第三者が右血痕を生じさせたという証拠はない。

そうすると、脇道上の血痕は、犯人が逃走する際、犯人に付着していた被害者の血液が滴下したものと解するのが最も自然ではないかと考えられる。

第三被告人の逮捕に至る経緯等

Y'子、宇井稔、高橋和彦、古賀博憲、石川好久、池憲夫、田原肇及び川崎年治の各証言並びに文末に掲げた各書証によれば、被告人の逮捕に至る経緯について、次の事実が認められる。

一 本件発覚後直ちに、小田原警察署(以下「小田原署」という。)に捜査本部が設置され、警部池憲夫を中隊長(以下「池中隊長」という。)として、本件現場における鑑識活動、本件現場周辺における遺留物件の探索、周辺住民の開き込み捜査等が実施された。

宇井検察官は、松田事件とともに、小田原事件も担当した。

二 被告人は、昭和六四年一月一日午後一一時四〇分、殺人及び現住建造物等放火の被疑事実により緊急逮捕され、同月三日以後、同被疑事実により松田署で勾留されていた。

三 丙川土木の経営者の妻Y'子は、被告人が逮捕されたことを知るや、被告人が、借金を申し込みに来るなどして非常に金に困っていたこと、金目方面にも早川方面にも土地勘があることなどから、小田原事件の犯人ではないかという疑いを抱き、親族の警察官に相談した結果、同月三日朝、小田原署に対し、被告人が小田原事件の犯人ではないかと思うので調べて欲しい、被告人はK方に泊まっていたはずであるという電話をかけた。そこで、小田原署の捜査官は、同日以後、Kから事情聴取をしたところ、被告人が果物ナイフを所持しているのを見た、被告人から運転手を刺したことを打ち明けられた旨の供述を得た。

被告人は、同月一一日及び一二日、古賀取調官の取調べにおいて、小田原事件を自白し、「俺れのやったこと」と題する書面及び上申書を作成し、同月一五日、宇井検察官の取調べにおいても自白を維持した。

(乙三三、三四)

四 被告人は、同月一九日、松田事件について処分保留で釈放された直後、小田原事件の被疑事実により通常逮捕され、同月二一日以後、同被疑事実により小田原署に勾留された。なお、池及び田原証言によれば、小田原事件による逮捕状発付請求の際の疎明資料は、被害届、事件発生報告書、Kの警面、被告人が松田署で作成した上申書等であり、その中には被告人と犯行を結び付ける物的証拠はなかったことが認められる。

五 被告人は、平成元年二月九日、松田事件及び小田原事件により起訴された。

第四被告人と犯行を結び付ける物的証拠の検討

まず、被告人と犯行を結び付ける物的証拠の有無について検討する。

一 被告人の着衣等への血痕付着の有無

1 前記認定のとおり、被害者の左後側頸部、左肩部の創傷は、左内頸動脈、左鎖骨下動脈を切截しているが、鑑定書(甲三一九)によれば、被告人の着衣等には、パンツに被告人と同一血液型であるA型の血痕が付着しているほかには、血痕の付着が認められない。

しかも、被告人は、一二月二三日以後、荷物を全て旅館乙山に預けているところ、公判廷において、同月一九日に甲野建設を解雇されてから昭和六四年一月一日に逮捕されるまでの間、靴下を買って履き替えたほかには着衣を着替えていない旨供述しており、本件全証拠によっても、本件発生時から逮捕後着衣等が領置されるまでの間、被告人が着衣を着替えたことは認められない。

2 このように被告人の着衣等に血痕が付着していないことは、本件現場付近の血痕付着状況等に照らして不自然ではないといえるであろうか。

(一) 鑑定結果

(1) 船尾鑑定は、検察官主張の態様による犯行の際に、加害者の着衣、帽子、履物等に被害者の血液痕をとどめないことがあっても矛盾しないものと推測される、右犯行の際に、加害者のジャンパーの左右の袖口部分のみに血液痕をとどめることもあり得るものと思考されるとしており、その理由について、概ね次のとおり説明する。

① 被害者の左後側頸部の創傷は、左内頸動脈を切截しているので、切截部からかなり多量の血液が噴出、飛散するが、右動脈の血管壁は平滑筋が発達し、切截時に程度の差はあるが中枢及び末梢方向に収縮するし、右動脈の外側は胸鎖乳突筋で覆われていて、内頸動脈の切截口と皮膚表面の刺切創口とが同一平面上にはないので、血液は受傷後の時間的経過とともに強く湧出流下し、周囲に飛散することはないものと推測される。

② 被害者の左肩部の創傷は、左鎖骨下動脈を切截断しているが、右動脈の前面は前斜角筋、大胸筋で覆われていること、着衣による影響があることなどから、血液が刺切創口から周囲に飛散することはないものと推測される。

③ 被害者が受傷後直ちに両手を受傷部に当てたことで創口を圧迫したことも考えられるので、右各創傷からの血液が加害者の着衣等に付着することがなくても矛盾しない。

④ 他の創傷は、いずれも小刺切創であり、太い動脈を損傷していないので、血液が受傷部から湧出流下することはあっても周囲に飛散することはないものと推測される。

⑤ 加害者は、被害者の後方から刃器を左右に持ち替えたり、一〇回にわたって損傷部位から刃器を引き抜いたりしているので、刃器に付着した血液が少量ではあるが後方に二次的に飛散することは当然考えられるが、加害者の着衣等に被害者の血痕をとどめないことがあっても矛盾せず、むしろ着衣等に血痕をとどめない可能性の方が多い。

(2) また、永田第一三回証言には、①被害者の左頸部の創傷は、内頸動静脈が斜めに切断されたような状態で切れていること、被害者が防御態勢をとると傷口自体がふさがる状態になることから、血液があまり表に飛び散るような形では出ないと考えられる、②左肩部の創傷は、肺を損傷し、内出血はあっても外出血の状態はそれほどではない、という部分がある。

(3) このように、鑑定結果はいずれも、被害者の傷口から直接に血液が飛散することはなく、天井、後部座席シート、背もたれ等の血痕は、凶器に付いた血液が二次的に飛散したものなどであるとし、被告人が小田原事件の犯人であるとしても、被告人の着衣等に血痕が付着していないことは矛盾しないと指摘する。

(二) しかしながら、成傷器の刺入による出血状況は、被害者の体位の変動、着衣の有無、成傷器の刺入から抜去までの時間などの諸条件によって影響を受け、それぞれの条件によっては、当然、出血量の多寡や血液の飛散状況が異なるものというべきであって、右鑑定結果は、犯人の着衣等に被害者の血痕をとどめないことがあっても矛盾するとはいえないという一つの可能性を指摘したものにすぎない。

他方、前記のとおり、犯人は車両内という至近距離で被害者を刺しており、刺切行為は多数回に及び、車両内の天井、後部座席等には広範囲に血痕が飛散、流下しているのみならず、脇道には、犯人が逃走する際に滴下したのではないかと思われる被害者の血液型と合致する血痕が、約四三・五メートルにわたり一八個残されている。また、自白によれば、被告人は、被害者を刺した後、身を乗り出して運転席の金員を探そうとしたり、後部座席の背もたれに寄りかかったりしているものである。

右のような具体的犯行状況や本件現場付近の血痕付着状況などに照らすと、真実被告人が犯人であるとすれば、被害者の返り血を浴びたり、被害者や車両内の血痕付着部分に接触するなどして、その手や着衣等には、逃走過程で滴下するほどの量の血液が付着したと考えるのが自然であるというべきである。

3 ジャンパーの袖口の血痕は、水洗いで落とせるか否か。

検察官は、論告において、被告人の着衣等から血痕が検出されていないことは洗浄実験により合理的に解明されている旨主張するので、この点について検討する。

中村隆志証言、血こん検査立会報告書(甲三〇)及び実験結果回答書(甲三一)によれば、洗浄実験の経緯について、次の事実が認められる。

科捜研技術吏員中村隆志は、血液を含ませた綿棒及び紙製の枠を用いて、防寒ジャンパーの袖口の指定された部位に指定された大きさ(右袖口表面に二センチメートル×三センチメートル、左袖口裏面に三センチメートル×一センチメートル、左袖口内側に三センチメートル×一センチメートル)で血液を塗布し、三時間二〇分経過後、水道水の流水下で両袖口を二〇分間水洗いして軽く絞り、さらに両袖口に石鹸を押し付けて泡立たせ、水道水の流水下で一〇分間揉み洗いして軽く絞り、タオルで拭いた。そして、両袖口にポリエチレンろ紙を押し当て、ロイコマラカイトグリーン試薬を滴下して血痕検査を行ったところ、いずれも、実験前は陽性反応を呈したが、実験後は陰性となった。

ところで、血液を含ませた綿棒を袖口に押し当てるという方法により、本件犯行によるものと同様の血液付着状況が生じるかは疑問であるし、右実験は、血液付着後の経過時間、血液付着の部位、大きさ、洗浄方法、洗浄時間等について、被告人の自白に基づき、小田原署の捜査官の指定どおりに行われたものであり、仮に自白に信用性が認められないとすれば、右実験の前提条件自体が覆されることになる。

したがって、右実験結果をもって、自白と独立して、ジャンパーの袖口の血痕が水洗いで落とせることの裏付けとすることはできないというべきである。

二 足跡の有無

「足跡の採取状況及び対照結果について」と題する書面(甲三四〇)及び現場足こん跡採取報告書(甲三四一、三四二)によれば、本件現場付近からは、合計六二個(資料個数合計七一個)の血痕付着足痕跡が採取され、そのうち、四個はタイヤ痕跡であり、その他の足痕跡(資料個数合計六七個)には、印象が不鮮明のため対象が不可能なものが五個、被害者の履物と類似するものが四八個、捜査・救急隊関係者又は第一発見者の履物と類似するものが九個(同一足痕跡が含まれているので、実質的には七個)あったこと、車両内からは合計二二個の足痕跡が採取されたが、そのうち一個は被害者の履物と類似する足跡であり、他は対象不可能な痕跡であったこと、以上の事実が認められる。

このように、現場付近及び車両内から採取された足跡のうち、被告人の足跡と合致するものはない。

三 指掌紋の有無

捜査報告書(甲三四三)、現場指掌紋対象結果通知書(甲三四五、三四七)等によれば、車両内からは合計二六個の指掌紋が採取されたが、そのうち一六個が識別不能(識別が全く不可能であると判断されるもの)、五個が関係者に合致するものであったこと、遺留指掌紋の五個は、いずれも確認困難(不鮮明又は印象範囲が少ないため、識別が極めて困難であると判断されるもの)であり、被告人の指掌紋とは合致しなかったこと、本件ナイフからは二個の指掌紋が採取されたが、いずれも識別不能であったこと、以上の事実が認められる。

このように、車両内及び本件ナイフから採取された指掌紋のうち、被告人の指掌紋と合致するものはない。

四 煙草の吸殻について

被告人は、小田原署に逮捕された当時ハイライト二箱を所持していた(甲三九)など、日ごろハイライト等の煙草を嗜好しているところ、前記のとおり、車両内から発見されたハイライトの吸殻に付着していた唾液の血液型は、被告人と同一のA型であった。

ところで、宮古隆証言及び捜査報告書(甲三二五)によれば、当該吸殻のように、製造番号の始めの二桁が08番台のハイライトは、福島県郡山工場で製造されたものであること、パチンコの景品替え専門問屋である戊山製菓株式会社は、同工場から仕入れた煙草を、自白によれば被告人が本件タクシーに乗車する直前にパチンコをしたというパチンコ店甲山ホールなどに卸していたことが認められる。

しかしながら、同工場の煙草の年間製造量を始め、同工場で製造された煙草の流通経路が明らかではないことからすると、当該吸殻がパチンコ店甲山ホールに卸されたものと特定することまではできない。

また、田原第一一回証言及び捜査報告書(甲四〇、三二四)によれば、被告人は煙草の火を消すとき、火がついている直近を親指と人指し指でつまみ、火をつまみ落とすようにしてもみ消すという癖があり、煙草の火の消し方には特徴があるといえるところ、当該吸殻のくびれをみると、右と同様の消し方によるものであるとするが、当該吸殻のくびれが指で消す際にできたものなのか、灰皿に押し当てるなど他の方法によってできたものなのかは必ずしも明らかではない。

しかも、本件タクシーには、犯行当日だけでも、三三名の乗客が乗車したものである。

これらにかんがみると、当該吸殻をもって、直ちに、被告人が車両内に落としたものということはできない。

五 作業ズボンのポケットの損傷について

被告人の作業ズボンの右サイドポケット内底部には、約一ミリメートル程度の損傷が認められるところ、戸叶鑑定書(甲四三)には、右損傷は、繊維の断端が揃っており、鋭利な刃物によるものと考えられ、本件ナイフによってできる可能性が考えられるとの記載がある。

しかしながら、他方、戸叶和夫証言には、右損傷は鋭利な刃物によるものということを示しただけで、それ以上の判断はできず、刃物の種類までは特定できないという部分があり、戸叶鑑定をもって、直ちに、右損傷が本件ナイフによって生じたものということはできない。

六 小括

以上のとおり、本件全証拠をみても、被告人と犯行を結び付けるに足りる物的証拠は存在しないというべきである。

第五Kの供述の検討

次に、Kの供述の信用性について検討する。

一 Kの供述経緯

K、Y'子、宇井稔、高橋和彦、池憲夫及び田原肇の各証言、Z'及びA"子の各警面(甲五二、五三)並びに文末に掲記した各書証によれば、Kの供述経緯について、次の事実が認められる。

1 松田署派遣巡査部長宮田勝敏は、被告人の一二月三一日以前の行動を捜査するために、昭和六四年一月一日、被告人の知人で、数日間自室に被告人を泊めていたKから事情聴取をした。Kは、当初、被告人とは三〇年来会っていないと供述していたが、被告人を一二月二八日及び二九日に泊めたことを認め、二八日夜には被告人は外出しなかった旨の供述をした。(甲三六〇)

2 Kの勤務先である株式会社乙川組の社長の妻A"子は、昭和六四年一月二日午後八時ころ、松田署からKの事情聴取をしたという連絡を受け、Kに対し、事件に関係していないかを確認したところ、Kは、関係していないと答えた。

3 宮田は、同月三日午後四時ころまで、K方で再度Kから事情聴取をした。その際、Kは、被告人は一二月二八日には茶色のサンダル(以下「サンダル」という。)を履いていたが、二九日にはスリッパを履いていた、被告人は二八日午後七時ころK方で寝ており、二九日午前零時ころにはいびきをかいてぐっすり寝込んでいた旨の供述をした。(甲三六一)

4 小田原署の捜査官は、Y'子からの電話を契機に、被告人の行動を把握するためにKから事情聴取をすることとし、昭和六四年一月三日、巡査部長服部をK方に派遣して小田原署への任意同行を求めた。Kは、またですかと言って一旦出頭をしぶったものの同行に応じ、同日午後七時ころから四日午前一時三〇分ころまで事情聴取を受けた。

Kは、当初、宮田に対する供述と同旨の供述をしていたが、同月三日午後一〇時過ぎ、警部補田原肇(以下「田原取調官」という。)が事情聴取を担当するようになってから、被告人から口止めをされており、本当のことを言ったら殺されるなどと供述し、同取調官から説得されて、概ね次のとおり供述した。(甲三六二)

一二月二八日朝、自室の敷布団を上げると全長二〇センチメートル位のステンレスの果物ナイフが出てきた。被告人はポケットの中からピンク色のタオル地のハンカチ(以下「ハンカチ」という。)を出してナイフを包み、ジャンパーのポケットに入れた。被告人は、同日午後七時三〇分ころ小田原に行くと言って外出したが、二九日午前三時三〇分ころ帰宅し、「早川で喧嘩をして電車で帰ってきた。」と言った。被告人のジャンパーは、左脇下が一〇センチメートル位切れており、左側下方に直径五センチメートル位の汚れがあり、その周囲は上方に向かって何かが飛び散ったような線状になっていた。被告人の履物はサンダルからスリッパに替わっていた。被告人は台所の流し台で五分位洗っていた。翌朝、被告人は、「早川で事件を起こしてしまった。誰にもしゃべらないでくれ。」と言った。

5 A"子は、Kが小田原署で事情聴取を受けたことを知り、昭和六四年一月四日、再度Kに対し事件に関係していないかを確認した。また、乙川組の社長Z'は、同日、Kから、被告人を泊めたこと、被告人は一二月二八日午後七時ころ外出し、二九日午前三時三〇分ころ帰宅したことなどを聞き、Kに対し、電車が走っていないのにどのようにして帰ってきたのか、K方の包丁がなくなっていないかなどと追及した。

6 Kは、昭和六四年一月五日朝から、再度田原取調官の事情聴取を受け、前記供述に加えて次のとおり供述した。(甲三六三、三六七)

被告人は、一二月二七日、一万円札三枚を勘定していた。二八日朝、敷布団の端を少しまくりあげると、ハンカチに包まれた柄の様なものが出てきた。ハンカチの中は、長さ二〇センチメートル位のステンレスの果物ナイフで、字が四文字書いてあり、刃に茶色の点々が付いていた。被告人は、ナイフを包んだハンカチをジャンパーのポケットに入れた。二九日の帰宅後、被告人は金員を勘定した。二九日朝、被告人に何の事件を起こしたかと聞くと、被告人は、顔の血の気が無くなり、青白くなって震え出し、口をかくかくさせながら、早川の魚市場の所でハイヤーの運転手を刺した、運転手の肩、腹及び腿の三か所を刺したが、途中で怖くなって逃げたと言った。

7 巡査部長岡別府宏は、平成元年一月一三日、Kから事情聴取をしたところ、Kの供述内容は、概ね一月五日付け警面と同じであった。(甲三六四)

さらに、岡別府が、同月三一日、Kから事情聴取をしたところ、Kは、ナイフを目撃した状況を詳細に述べ、ナイフは全長約二〇センチメートル、幅二、三センチメートル、刃が一二、三センチメートル、柄部が七、八センチメートルで、柄部が茶色っぽい色をした木製で、細身のステンレス製の果物ナイフのようなものであり、柄部に近いところに漢字四文字が刻まれていた旨の供述をした。また、Kは、ハンカチは横三五センチメートル位、縦三〇センチメートル位であると供述した。(甲三六五)

8 宇井検察官は、昭和六四年一月七日以前にKを取り調べたが、その際には供述調書を作成せず、平成元年二月七日、再度Kを取り調べて供述調書を作成した。(甲三六六)

Kは、宇井検察官に対し、概ね従来と同じ供述をしたが、ナイフを見たのは一二月二七日の朝だったような記憶が強い、被告人が二八日の何時ころに外出したかは覚えていない、被告人は、帰宅後、手や顔を五分か一〇分位かけて丁寧に洗っていた、被告人のジャンパーの右脇下付近が破れたか縫い目がほつれたような感じで、白い綿が見えており、右の背中付近に五センチメートル位のはねでも飛ばしたような染みがあった、被告人は一万円札を一枚、五千円札を一枚、千円札を三、四枚勘定していた旨の供述をした。

9 Kは、昭和六四年一月五日か七日ころ、丙川土木から金を借り、公判廷で供述した平成元年七月には、丙川土木に勤務していた。

なお、Kは、平成三年四月一五日ころから肝癌を患い、同年八月八日、死亡した。(甲三八一)

二 捜査段階におけるKの供述の要旨

以上によれば、捜査段階におけるKの供の要旨は、次のとおりである。

1 被告人は、一二月二六日から二九日までK方に泊まり、二九日午前七時ころKと別れた。

2 被告人は、一二月二七日ころ、果物ナイフをハンカチに包んで所持していた。被告人は、二九日朝、ハンカチは所持していたが、ナイフは所持していなかった。

3 被告人は、一二月二八日夜、小田原に行くと言って外出し、二九日午前三時三〇分ころ帰宅した。

4 帰宅当時、被告人のジャンパーの脇が破れ、履物がサンダルからスリッパに替わっていた。

5 被告人は、帰宅後、流し台で顔や手を洗っていた。

6 被告人は、一二月二七日には約三万円、二九日の帰宅後には約一万九〇〇〇円の金員を勘定していた。

7 被告人は、Kに対し、帰宅後、早川で喧嘩をしたと言い、一二月二九日朝、ハイヤーの運転手を刺してきた、肩、腹及び腿を刺した、誰にもしゃべらないでくれなどと言った。

三 Kの供述の信用性

Kの供述内容を詳細に検討すると、以下に指摘するとおり、その信用性を疑うべき問題点を多々内包している。

1 供述内容の問題点

(一) 被告人が果物ナイフをハンカチに包んで所持していたのを見たという供述について、

(1) Kは、一月三一日付け警面において、ナイフの長さ、幅などについて微細にわたる供述をする一方、被告人に見付からないよう急いで見たので、ナイフの柄部が欠けていたかどうかは覚えていないと供述している。

しかしながら、Kが、一瞬の間に、ナイフを詳細に観察し、その形状等を正確に記憶し得たかには疑問がある上、他方で柄部の一部が欠損していたかどうかという一見して明らかな特徴を記憶していないというのは不自然である。

また、Kは、事情聴取の際に本件ナイフを示され、自分が見たナイフにも、本件ナイフと同一の「関一幸作」という四文字の打刻があった旨供述しているが、ほとんど漢字を読めないKが、果して打刻の同一性を判断できるかは疑問である。

(2) Kは、捜査段階において、一貫して、ハンカチを広げてナイフを見たと供述し、平成元年一月三一日、自室における実況見分においても、敷布団をめくってナイフの柄部を目撃した状況、ハンカチを広げてナイフの刃体を出した状況等を再現している。

それにもかかわらず、Kは、第四回公判において、「何か柄があったからナイフか何かみたいだなと思った。」「柄だけ見て、ナイフじゃないかなと思って、またしまった。」と供述し、第五回公判においても、検察官に対してハンカチを全部広げたとは言っていないと供述するなど、ナイフのどの部分を見たかについての供述は著しく変遷し、いずれもあいまいである。

仮に、公判供述のとおり、Kがナイフの柄部しか見ていないとすれば、刃体の長さ、幅、四文字の打刻等についての捜査段階におけるKの供述が信用できないことはいうまでもない。

(3) 前記のとおり、Kは、一月三一日付け警面において、ナイフの柄部が欠けていたかどうかは覚えていないと明確に供述したにもかかわらず、第五回公判において、一転して、ナイフの柄部が割れて欠けているのが見えたと供述している。

しかしながら、右公判供述の形成過程をみると、Kは、事情聴取のときに取調官から示された本件ナイフの柄部が欠損していたことと混同しているようでもあり、果して自分の部屋で見たというナイフのことを供述しているかどうかは明確ではない。

加えて、Kは、公判廷で本件ナイフを示されながら、事情聴取のときに取調官から示されたナイフ(本件ナイフ)はこんなに曲がっていなかったとさえ供述しており、このことは、Kの記憶力が極めてあいまいであることを示している。

(4) Kは、捜査段階において、一二月二七日朝、被告人がナイフをポケットに入れるのを見た旨供述している。

しかしながら、Kは、公判廷において、被告人と一緒に部屋を出ると、被告人が大事なものを忘れたと言って部屋に戻ったので、ハンカチに包まれたものを取りに行ったと思った、被告人は部屋から戻ったときに何も持っていなかったので、それをポケットに入れたのではないかと思った旨の供述をしている。

そうすると、Kは、被告人がポケットにハンカチに包まれたナイフを入れた場面を見たわけではなく、被告人がポケットにナイフを入れたという供述は、単に自分の想像を述べたにすぎないことになる。

(5) 後記のとおり、ナイフを包んでいたというハンカチは、捜査を尽くしたにもかかわらず発見されていない。

(二) 被告人が一二月二八日夜外出したという供述について

Kは、松田署の巡査部長宮田の事情聴取では、被告人が寝てからテレビで時代劇忠臣蔵を観たことなど、一二月二八日夜の記憶を具体的に供述しているのに対し、小田原署の田原取調官の事情聴取を受けるようになってから、一転して、被告人が同夜外出したと供述を変えている。

なお、この点に関し、戊田荘のK方の上階に居住するB"の検面(甲四八)には、一二月二九日午前二時ころから五時ころまでの間に、K方の出入口付近でスリッパのようなものの踵を引きずったりこすったりして歩く物音がし、その直後、K方のガラス戸が開くような音が聞こえた旨の供述部分があるが、B"は、同夜、多量に飲酒して睡眠していたというものであり、その供述内容をみても時間をはっきり覚えているわけではないから、右供述部分をもって直ちにKの右供述の裏付けとすることはできない。

(三) 帰宅時の被告人の着衣等の供述について

Kは、帰宅後の被告人のジャンパーのほつれや染みについて詳細な供述をし、履物がサンダル(第四回公判では、もともと鼻緒の付いた草履を履いていたと証言している。)からスリッパに替わっていたと供述するが、深夜、睡眠していたKが、薄暗い部屋の中で、被告人の着衣や履物をどの程度注意深く観察し得たかは疑問である。現に、Kは、公判廷において、ジャンパーの脇が切れていたのは右か左かよくわからないなどと供述し、さらに、被告人のジャンパーを示されていながら、脇はもっと長く切れ、白い真綿のようなものが見えていたなどと供述している。

また、後記のとおり、Kが供述するサンダルは、ハンカチと同様、捜査を尽くしたにもかかわらず発見されていない。

(四) 被告人が流し台で顔や手を洗っていたという供述について

Kは、公判廷において、被告人が流し台で洗っていた部位の供述を転々と変えている。

すなわち、Kは、弁護人から、被告人がどこを洗っていたかと質問されると、顔と手を洗い、髭を剃っていたと答え、夜中に髭を剃っていたのかと聞かれると、それは朝だと答えている。さらに、Kは、被告人が顔と手を洗っていたのは見たが、そのほかははっきりしないと供述する一方、ジャンパーの袖をタオルで拭いたと思うと答え、弁護人から、手を拭いたか、ジャンパーの袖を拭いたか、区別できたのかと追及されるや、顔と手を洗い、顔と手を拭いたこと以外ははっきりしないと供述するに至っている。

このような供述の変遷過程をみても、Kは、記憶があいまいな事項についても自己の想像で供述し、質問者に矛盾点や不合理な点を追及されると、あわてて供述内容を変遷させるという傾向が顕著であることが認められる。

(五) 被告人が金員を勘定していたという供述について

Kは、捜査段階において、被告人が一二月二七日及び二九日の帰宅後に金員を勘定していた旨供述していたが、公判廷において、金員を勘定していたのは二七日だけであると供述するに至った。

また、勘定していた金額についても、一万円札二、三枚と供述したり、一万円札、五千円札、千円札及び五百円玉と供述したりし、結局、被告人がいくらの金員を勘定していたかはあいまいである。

(六) 被告人と交わした会話の供述について

Kは、一月三日付け警面において、「被告人から早川で喧嘩をしたということを聞いただけであるが、被告人が帰った後、早川でタクシーの運転手が殺されたという新聞記事を読んで、被告人が言っていたのはこのことかと思った。」旨供述していたが、その後、被告人から聞いたという話の内容が次第に詳しくなっている。

さらに、公判廷においても、第四回公判における検察官の主尋問では、被告人が早川で人を殴ってきたと言ったと供述したのに対し、第五回公判の弁護人の反対尋問では、被告人の帰宅後、一言も話をしていないと供述し、検察官から再主尋問を受けるや、帰ってきた手段について簡単な話をしたと供述するなど、質問に応じて供述内容が転々と変わっている。

また、Kは、捜査段階では、被告人が被害者の肩、腹及び腿の三か所を刺したと言った旨、公判廷では、背中と腹を刺したと言った旨供述しているが、これらが被害者の創傷の部位と合致しないことは明らかである。

(七) 以上のとおり、Kの供述は、被告人が一二月二八日夜K方に在室していたか否かを始め、その他の重要部分すなわち、自室においてナイフを目撃したときの状況、被告人がナイフを所持しているのを目撃したことの有無、被告人の履物や着衣の目撃状況、金員勘定等の行動の目撃状況などについて、供述が著しく変遷していたり、あいまいであったり、あるいはその裏付けが存在していなかったりする。また、Kの公判廷における供述態度を見ても、質問を十分理解していなかったり、全体として時間の観念に乏しく、いつの時点のことを供述しているかを混同していたり、自己の矛盾点や不合理な部分を追及されるや、直ちに供述を変遷させる場面が随所に認められる。さらに、Kは、記憶が不明確なことや自分が想像したことについて、あたかも事実であるかのような供述さえしている。

これらの点にかんがみると、Kが、果して自己の記憶に基づいて誠実に供述をしているかは、極めて疑問であるといわざるを得ない。

2 供述経緯の問題点

(一) 前記認定のKの供述経緯に照らすと、Kは、元旦からほぼ連日にわたり、松田署の捜査官からも小田原署の捜査官からも事情聴取を受け、さらには雇用主である乙川組の社長夫妻から事情聴取の様子を聞かれたりしたものであり、早く取調べを終わらせたい、被告人と自分との関わりを否定したいという心理が働いた余地があったとも考えられるのであって、Kには、虚偽の供述をする理由が全くないとはいえない。この点について、K自身、第四回公判において、「やったことを言わないと何回もまたこっちで調べるのいやだから、それで俺が言った。」と供述しているところでもある。

(二) Kが作成した上申書(甲三六七)を見ると、かたかなとひらがな混じりの稚拙な文章であり、警面(甲三六三、三六五)の添付図面を見ても、ほとんど漢字を書けず、ひらがなやかたかなにも間違いが多い。また、前記のとおり、Kの公判廷における供述内容は全般的にあいまいであり、その供述態度を見ると、質問内容を十分に理解することができなかったり、日時に関して混同していることが多く、一旦供述したことを次には翻す部分も随所にみられる。

これに対し、Kの検面及び警面は、内容が整然としていて、具体的で迫真性のある表現が用いられており、Kの上申書や公判供述との落差が顕著である上、犯行を打ち明けたときの被告人の態度など、細かな描写の部分で、ほとんど同一の表現がされている箇所もある。

そうすると、Kの検面及び警面が、果してK自身の供述をそのまま録取したものといえるかについては、疑念を抱かざるを得ない。

3 小括

以上検討したところによれば、Kの供述は、その内容、供述経緯等にかんがみると、たやすく信用することができないというべきである。

第六自白の任意性

一 被告人は、小田原署で連日午前二時ないし三時まで取り調べられ、取調官から二度にわたり暴行されるなどして虚偽の自白をした、検察官に対しても自白を維持せざるを得なかったと供述し、弁護人は、被告人の自白には任意性がないと主張する。

そこで、以下、自白の任意性について検討する。

二 証拠(被告人の公判供述、宇井稔、高橋和彦、古賀博憲、石川好久、田原肇及び川崎年治の各証言並びに文末に掲記した各書証)によれば、被告人が小田原事件の犯行を自白するに至った経緯について、次の事実が認められる。

1 小田原事件は小田原署に、松田事件は松田署に、それぞれ独立の捜査本部が設けられ、各捜査本部において独自に捜査が進行した。

2 松田署留置期間中の取調べ

宇井検察官は、平成元年一月一〇日、松田事件の犯行の動機について被告人を取り調べ、二万八〇〇〇円の金員を奪うために宿舎に放火してPを殺したというのは納得できないとして余罪を追及したところ、被告人は、取調べ終了後、どうしても話したいことがあると言って古賀取調官及び石川補助官を呼び、同人らに対し、「検察官から、ほかにもあるだろう、徹底的に追及すると言われた。俺が何をやったというんだ。俺は何もしていないのに。」と言った。

古賀取調官は、同月一一日午後、宇井検察官、高橋中隊長及び小田原署の捜査官と打合せをし、被告人に対し小田原事件の取調べをすることとした。

古賀取調官は、同日、被告人を取り調べて説得したところ、被告人は、取調室の壁や机に自分の頭をぶつけたり、頭を抱え込んで首を振ったり、鳴咽して俺はもう死んだっていいやと言ったりした。被告人は、一度はやったと言ったもののこれを打ち消し、その後も自白と否認とを繰り返した末、午後一〇時過ぎ、平塚市金目からタクシーに乗り、早川の漁港で運転手をナイフで刺殺した、このことをKに話したと供述するに至り、「俺れのやったこと」と題する書面を作成した。古賀取調官は、被告人が右書面を作成する際、小田原署の捜査本部に電話をかけて、犯人が平塚市金目から本件タクシーに乗車したこと、本件タクシーが白色であること、成傷器が果物ナイフであることに間違いがないか否かを確認した。(乙三三)

被告人は、同月一二日午前一〇時過ぎから取り調べられ、一転して否認し、やっていない、わからないと繰り返し供述したが、夕食後の午後七時前ころになって自白するに至り、上申書を作成した。古賀取調官は、被告人が右上申書を作成する際にも、小田原署の捜査本部に五、六回電話をかけて、路線バスが金目方面を運行しているか、片岡というバス停があるか、バス停の近くにパチンコ店甲山ホールがあるか、本件タクシーが秦野方向から来たか、本件タクシーが西湘バイパスを経由したか、車両内に運転日報があるか、被害者には刃の付け根まで刺さった傷があるか、刺された回数は何回か、被害者が着ていた上着の色や手袋の有無等について、被告人の供述内容に間違いがないか否かを確認した。(乙三四)

高橋中隊長は、同月一三日、被告人に対し、前日に作成した上申書の内容を確認した。

宇井検察官は、同月一五日、被告人に対し小田原事件の取調べをしたところ、被告人は犯行を認め、自白するに至った心情を供述した。(乙三五)

3 小田原署留置期間中の取調べ

被告人は、平成元年一月一九日、小田原事件の被疑事実により通常逮捕された。

被告人は、同日の弁解録取手続、二〇日の宇井検察官の取調べ、二一日の勾留質問において、いずれも小田原事件の被疑事実を認め、同日以後、同被疑事実により小田原署に勾留された。(乙三六、三七、三八)

小田原署では、池中隊長の下で、田原取調官が被告人の取調べを担当し、巡査部長川崎年治(以下「川崎補助官」という。)が補助官として取調べに立ち会った。

小田原署における被告人の供述調書及び上申書の作成経緯は、次のとおりである。

一月一九日 警面(乙六)犯行状況等

二〇日 警面(乙七)犯行後の行動(ハンカチを捨てた場所等)

二一日 上申書(乙五〇)本件タクシーに乗車するまでの経緯

上申書(乙五一)平塚駅で秦野行きのバスに乗車するまでの行動等

上申書(乙五二)逃走中、早川駅前派出所の赤灯が目に入ったが、警察官が中にいなかったことなど

二二日 上申書(乙五三)一二月二八日夜、丙原建設で一緒に働いたC"から金を借りようと思ったことなど

上申書(乙五四)車両内での喫煙状況

上申書(乙五五)本件タクシーの走行経路

二三日 上申書(乙五六)本件ナイフの入手先

上申書(乙五七)本件ナイフの所持状況

二四日 上申書(乙五八、五九)犯行後、履物を履き替えた状況

二五日 検察官取調べ 調書なし

二六日 警面(乙八)身上、経歴等

二七日 上申書(乙四一)着衣の血痕付着状況、袖口の洗浄状況

上申書(乙六〇)犯行前、パチンコをした状況

二八日 警面(乙九)犯行前の行動、所持金等

二九日 警面(乙一〇)犯行に至る経緯、サンダルを拾った場所等

上申書(乙六一)サンダルの図面

三〇日 警面(乙一一)犯行状況等

警面(乙一二)犯行後の状況等(本件ナイフが曲がったのは二回目に刺したときではないかということ、逃走経路、犯行翌日の行動)

検察官取調べ 調書なし

三一日 警面(乙一三)着衣の血痕付着状況の訂正

検面(乙一九)犯行に至る経緯、所持金等

検面(乙二〇)犯行状況等(ナイフを持ち替えた時期を一部変更)

二月一日 警察官取調べ 調書なし

二日 警察官取調べ 調書なし

三日 実況見分(甲二六、二八)犯行再現、犯行前後の行動

四日 上申書(乙六二)本件ナイフの入手先

警面(乙四八)右同

五日 上申書(乙六三)一二月二九日、武井から一万円を借りたこと

警面(乙一四)犯行状況等(最後に煙草を吸った場所、犯行場所を決めた地点、刺した状況等の訂正)

検面(乙二一)犯行に至る経緯、所持金等

六日 警面(乙一五、一六)本件ナイフの入手先

七日 上申書(乙六四)右同

八日 上申書(乙六五、六六)今まで作成した上申書は、自分の本当の気持ちを書いたものであること

警面(乙一七)被告人の犯行当時の着衣等

検面(乙三九)起訴状原案記載の各公訴事実は間違いないこと、本件ナイフの入手先

4 被告人は、第一回公判以後、小田原事件を一貫して否認している。

三 そこで、自白の任意性について検討すると、前記のとおり、被告人は多数の上申書を作成しているが、これらはいずれも被告人が自ら作成したものであり、検面及び警面には、いずれも被告人の署名、指印がされている。

また、留置場からの出入状況に関する捜査報告書(甲三三七、三三八)には、松田署留置期間中も、小田原署留置期間中も、被告人に対する取調べが午前二時ないし三時まで及んだ旨の記載はない。

さらに、田原及び川崎の各証言によれば、被告人は、小田原署留置期間中の取調べにおいて、ハンカチやサンダルについて追及されたときと、平成元年二月六日の全面否認後との二回、腰縄が椅子にくくりつけられた状態で立ち上がり、取調室の壁に自分の頭を連続的にぶつけたため、川崎補助官が止めに入り、被告人の胸倉をつかまえて椅子に座らせたことが認められるところ、右措置は事故防止のためにとられたものとみることができる。しかも、被告人は、第一八回、一九回公判において、古賀取調官や宇井検察官からは暴行や脅迫を受けていないことを自ら認めており、他に、本件全証拠によるも、被告人の捜査段階における自白について、取調官の暴行、脅迫、強制など、その任意性に疑いを差し挟むまでの事実を認めることはできない。

したがって、自白に任意性がない旨の弁護人の主張は採用できない。

第七自白の信用性

検察官は、被告人の自白は、自然で具体的かつ詳細であり、体験した者でなければ語れないような臨場感に富み、迫真性があり、犯行の動機、犯行に至る経緯、犯行状況、犯行後の状況等の根幹部分について一貫している上、豊富な裏付け証拠によって支えられており、信用性に疑いを容れる余地はない旨主張するのに対し、弁護人は、自白には信用性が認められないと主張する。

そこで、以下、自白の信用性について検討する。

一 自白の経緯

1 捜査の経緯

前記のとおり、小田原署の捜査官は、昭和六四年一月三日、Y'子の電話を契機にKから事情聴取をし、Kの供述等により被告人が小田原事件の犯人ではないかとの嫌疑を抱くに至ったものであり、他方、宇井検察官は、被告人に対する松田事件の取調べで余罪の有無を追及し、松田署の古賀取調官は、小田原署の捜査官と打合せの上、被告人に対して小田原事件の取調べをし、被告人が上申書等を作成する際には、その内容が被疑事実あるいはこれに関連する事実に合致するか否かを小田原署の捜査官に確認していたものであるが、さらに、高橋和彦及び古賀博憲の各証言によれば、高橋中隊長は、同月六日ころ、小田原署から、Kの供述内容に変更があったとの連絡を受け、同月一〇日、古賀取調官にその旨を伝えていたことが認められる。

また、被告人は、Kの捜査段階における供述に関連して、前記のとおり、所持金、本件ナイフの入手先、ハンカチを捨てた場所、サンダルを履き替えた場所などについて、何度も供述を録取され、あるいは上申書を作成しており、特に、取調べの最終段階では、本件ナイフの入手先が焦点となっていたことが窺われるところ、これらについての供述はいずれも著しく変遷している。

このような捜査の経緯に照らすと、松田署及び小田原署の両捜査本部において、あいまいなKの供述を基にして被告人を追及した結果、自白を得るに至ったことが認められる。

2 取調状況

捜査報告書(甲三三七、三三八)によれば、被告人は、松田署及び小田原署に勾留され、平成元年二月九日に起訴されるまでの間、ほとんど連日にわたり午前九時ころから午後一〇時過ぎころまで取調べを受けていたことが認められる。

また、宇井稔、古賀博憲、石川好久、田原肇及び川崎年治の各証言によれば、被告人は、松田署における取調べにおいても、小田原署における取調べにおいても、黙って下を向いたままの状態を続けたり、取調室の壁や机に自分の頭をぶつけたりしたこと、同月一日、弁護人との初めての接見直後の宇井検察官の取調べにおいて、当初否認したこと、同月六日、弁護人との接見直後の田原取調官の取調べにおいて、一旦否認し、午後九時過ぎころ自白に転じたこと、そのいずれの取調べにおいても否認調書が作成されていないこと、同月一日から三日までの間は被告人の取調べがなされているのに、供述調書や上申書が作成されていないことなどが認められる。

以上のような取調状況に照らすと、被告人は、捜査段階において、長期間にわたり連日長時間の取調べを受け、身体的に疲労し精神的に動揺した状況もあったことが窺われ、しかも、必ずしも一貫して犯行を自白していたわけではないことが認められる。

二 自白内容の変動、合理性

被告人の自白内容を検討すると、以下のとおり、重要な点や犯人ならば間違えるはずがない事実について供述が変転しているのみならず、不自然、不合理な部分が多々存在する。

1 一二月二八日の所持金

(一) 被告人は、一二月二八日の所持金について、一月一二日付け上申書(乙三四)では、パチンコで約五〇〇円を費消し、残金が四、五〇〇円になった旨、一月一九日付け警面(乙六)では、約一二〇〇円を所持していたが、パチンコで約七〇〇円を費消して残金が五〇〇円になった旨、一月二〇日付け検面(乙三七)では、残金が千数百円になった旨それぞれ供述している。

ところが、被告人は、一月二八日付け警面(乙九)において、初めて、一二月二七日、小田原駅東口構内で、弁当を買おうとしていた年齢五五、六歳位の労働者風の男から現金約四万七〇〇〇円の入った財布を窃取し、その後、パチンコで約一万円を費消するなどして残金が約三万円になった旨供述した。さらに、被告人は、一月二九日付け警面(乙一〇)においても、一二月二八日に約三万円を所持していたことを認め、一月三一日付け検面(乙一九)では、それを前提として、犯行前にパチンコで約八〇〇〇円を費消し、残金が一万九〇〇〇円になった旨供述している。

しかしながら、被告人は、二月五日付け検面(乙二一)において、一転して、財布盗の話は田原取調官から所持金が三万円あったはずだと追及されたためにしたものであって虚偽であると供述し、公判廷においても、財布盗について一貫して否認している。

(二) ところで、Kの捜査段階の供述には、被告人が一二月二七日に約三万円、同月二九日に約一万九〇〇〇円の金員を勘定しているのを見たという部分があり、被告人が財布盗をしていれば、Kの右供述に符合することになるが、財布盗については、被害届が出されておらず、窃取した財布も発見されていないなど、何ら裏付けが存在しない上、Kの右供述はあいまいで、信用性が認められないことは前記のとおりである。

また、被告人は、財布窃取後の行動について、小田原駅東口付近の商店街を逃走し、地下道を通って同駅西口に回り、同駅構内の便所で財布をかみそりで切り裂き、ティッシュペーパーに包み、三回に分けて水に流したと供述していたものであるが、わざわざ迂回する経路を通った上で、財布を切り裂いて水に流すという手の込んだ証拠隠滅を図ったというのはいかにも不自然である。この点について、被告人は、前掲二月五日付け検面において、財布を捨てたといえば探されて嘘がばれると思ったため、探されないような話を考えた旨供述している。

以上によれば、財布盗の供述は虚偽である旨の被告人の供述を直ちに排斥することはできず、被告人は、財布盗について虚偽の供述をしたばかりか、わざわざ裏付けがなくても辻褄が合うような供述をしたのではないかとも考えられる。

(三) このように、被告人の一二月二八日の所持金についての供述は、転々と変遷して一貫性を欠くのみならず、極めて具体的で迫真性がある供述でありながら、虚偽の内容をも含むものである。

(四) 検察官は、論告において、被告人が財布盗をしていないことを前提としながら、被告人が犯行前にパチンコで約八〇〇〇円を費消し、残金一万九〇〇〇円を所持していたと主張する。

しかしながら、右主張は、判示犯行に至る経緯における一二月二八日前後の被告人の所持金と符合しないものである。すなわち、同日以前の所持金をみると、被告人は、同月二三日、旅館の宿泊代が払えなくなり、荷物を旅館に預けたまま金策に出かけ、同夜は小田原駅の改札口等で野宿し、二四日、Iから一万五〇〇〇円を借りたものの、二五日には、所持金を費消して海岸で野宿し、二六日、Lから一万円を借りたがこれを費消し、K方に泊まらせてもらったものであり、その後、二八日までに、被告人が知人から借金をしたり収入を得たりしたという証拠はない。他方、同月二八日以後の所持金をみると、被告人は、二九日、Iから一万円を借りて旅館に泊まったが、三〇日には野宿し、三一日、所持金が旅館の宿泊代に足りなくなり、Pから借金をしようとしたものである。そうすると、被告人が真実財布盗をしていないのであれば、二八日に三万円も所持していたというのは不自然であり、そうであるならば、パチンコで約八〇〇〇円を費消したとの供述も不合理であることになる。

2 被告人の犯行前の行動

(一) K方から外出した理由

被告人は、一月一二日付け上申書(乙三四)において、一二月二八日の夕方にK方から外出した理由として、金がないから寂しい所へ行ってタクシーに乗り、運転手を殺して金を奪おうと決めたとして、K方を出たときから犯行を決意していた旨供述し、知人に金を借りに行こうと思ったという供述はしていない。

ところが、被告人は、一月一九日付け警面(乙六)では、金を借りるために丙原建設に働いていた二六、七歳位の人物を訪ねようとしたと供述し、同警面及び一月二九日付け警面(乙一〇)では、実際には丙原建設に行かなかった理由について、訪ねようとした人物の名前がわからなかったので、丙原建設の親方を訪ねて名前を聞かなければならなかったところ、夜遅くなってしまったので親方に怒られそうで怖かったためであると供述している。

しかしながら、いくら金員に窮迫していたとはいえ、名前もわからない人物に金を借りに行くというのはいかにも不自然であるし、仮に、そうしなければならないほど窮迫していたのであれば、せっかく丙原建設の近くまで行きながら途中で引き返すというのはさらに不自然である。

(二) 平塚周辺での行動

(1) 被告人は、K方から外出した時刻について、一月一二日付け上申書(乙三四)及び一月一九日付け警面(乙六)では、午後七時半ころと供述していたが、一月二九日付け警面(乙一〇)では、午後六時四〇分ころと訂正し、その理由として、Kの同僚が部屋に来た時刻が午後六時に近かったことを思い出したと供述している。

また、被告人は、平塚駅から秦野行きのバスに乗って丙原建設に向かった旨自白しているところ、一月一二日付け上申書及び一月一九日付け警面では、片岡バス停で降車したと供述していたが、一月二九日付け警面では、そのひとつ手前の飯島バス停で降車したと供述が変遷している。

そして、一月三一日付け検面(乙一九)において、片岡の方が丙原建設に近いのにわざわざ飯島で降車したのは、丙原建設に行きづらいという気持ちや、もしかしたらパチンコで稼げるかもしれないという気持ちがあったためであると供述している。

さらに、被告人は、一月二一日付け上申書(乙五一)では、「平塚駅でバスの運転手に秦野行きのバス乗り場を聞いた。午後八時一〇分ころ平塚駅発の秦野行きのバスに乗車し、飯島バス停で降車した。乗り場でないところで手を挙げて、前の入口から乗車し、左側の前から三番目に座った。」旨供述していたところ、一月三一日付け検面(乙一九)では、バスの発車時間は午後八時過ぎころとなり、乗車の仕方については、特段の供述をしていない。

しかしながら、被告人が、丙原建設に行くのに通常と異なる行動をとったのであれば、当初からそれに沿った供述をなし得たはずであり、このような事実について記憶違いがあったとか、あえて真実と異なる供述をしたとは考え難い。

しかも、後記(3)のとおり、平成元年一月下旬ころには、一二月二八日午後八時過ぎころ、平塚駅で被告人に似た人物を見たという複数の目撃供述が得られた一方、戸叶鑑定書によれば、犯人が本件タクシーに乗車したのは午後一一時一四分ころと推認されるところ、被告人の右供述は、平塚駅からバスに乗った時刻、本件タクシーに乗車する前にパチンコをした時間など、時間の経過がこれらの証拠と整合するように訂正されている上、飯島バス停で降車したとすることにより、パチンコ店甲山ホールに入ったという行動を合理的に説明するものになっている。

(2) D"、E"及びF"の各証言には、被告人の平塚駅での行動についての自白に沿う部分がある。

すなわち、神奈川中央交通株式会社(以下「神奈中」という。)伊勢原営業所勤務のバス運転手D"は、一二月二八日午後八時二分ころ、平塚駅北口バス乗り場にバスを停車中、黒っぽいジャンパーを着て東北出身者のようななまりのある五〇歳前後の小柄な男性から、秦野行きのバスはどれかと尋ねられた旨供述し、平塚駅前神奈中バスセンターで乗車券の販売、案内等の業務に従事するE"は、同日、襟に手皮の付いたジャンパーを着て、つばの広い白線の入った帽子をかぶった五〇歳前後の小柄な男性が、秦野行きのバス方向に行ったのを見た旨供述し、神奈中秦野営業所勤務のバス運転手F"は、同日、自分が運転する秦野行きのバスに被告人と似た服装の男性が乗車した、バスは平塚駅を午後八時過ぎころ発車し、右男性は長持から南金目までの間のバス停(飯島も片岡もその間にある。)で降車した旨供述する。

ところで、D"は、バスを発車させるまでのわずか二、三分間に、降車客や乗車客で混み合っていたときに声をかけられたものであること、E"は、当該人物の帽子や服装など、全体の雰囲気が被告人に似ていると思ったにすぎず、顔を見たわけではないこと、F"は、当該人物の服装について記憶がはっきりしていないことなどに加えて、右各証言によれば、平塚駅のバス乗り場付近は二〇ワットの蛍光灯がついているだけで薄暗いこと、いずれの証人も、犯行から一月近く経過した一月下旬ころに事情聴取をされたこと、捜査官は、平塚駅を八時から八時一〇分ころに発車したバスの運転手に限定して聞き込み捜査をしていたことが認められる。

これらの証言により認められる証人らとその目撃した人物との接触、目撃状況にかんがみると、証人らの識別状況は不十分であり、あるいは記憶が鮮明ではないから、いずれも被告人が平塚駅からバスに乗ったという自白の裏付けとするには足りないというべきである。

(三) 本件タクシーに乗車するまでの経緯

(1) 被告人は、一月一二日付け上申書(乙三四)では、パチンコ店甲山ホールから一キロメートルくらい秦野方向に行ったとき、秦野方向から白いタクシーが来たと供述するにとどまっていたが、一月二一日付け上申書(乙五〇)では、「タクシーに乗ろうと思って金目の商店街のはずれのタクシー会社だと思っていた場所に向かったが、そこは板金塗装屋(丁田ボデー)であった。その先の砂利置場まで歩いたが、あまり車がないので引き返し、板金塗装屋の前に戻ったところ、秦野方向から空車のタクシーが来た。」旨供述し、一月三一日付け検面(乙一九、二〇)においても、金目の方にタクシーが二台停まっていたのを覚えており、そこがタクシー会社だろうと思って秦野方向へ歩き出したが、着いてみると自動車の修理工場だったと供述している。

ところで、G"証言には、タクシーの運転手であるG"は、以前丁田ボデーに勤務していたことから、同所にタクシーで立ち寄ったことが時々あったとの部分があるが、G"が警察官に対して供述をしたのは平成元年一月二一日であり、被告人が板金塗装屋のことを供述した上申書の作成日と一致している。

(2) H"の証言には、丁川交通に勤務するタクシー運転手H"は、一二月二八日午後一一時一二、三分ころ、丁田ボデー付近で被害者が運転する空車のタクシーとすれ違ったが、その直前、秦野方向に向かう黒っぽい服装の男性を目撃したという部分がある。

しかしながら、H"は、時速約六〇キロメートルで走行中に、道端にいる男性の後姿を見ただけであり、付近道路には照明がなく暗かったことに照らすと、H"の識別状況の正確さには疑問があり、右証言をもって、被告人が丁田ボデー付近で本件タクシーに乗車したという自白の裏付けとするには足りない。

右のとおり、被告人の犯行前の行動に関する供述には不自然、不合理な点が多いのみならず、右供述を裏付ける確たる証拠は存在しない。

3 被告人が犯行を決意した場所

被告人は、一月一二日付け上申書(乙三四)では、K方から外出する時点で、タクシーの運転手を殺害して金を奪おうと決意していた旨供述しているが、一月一五日付け検面(乙三五)では、犯行を決意したのは西湘バイパスに入ってからであると供述している。

さらに、一月一九日付け警面(乙六)では、犯行を決意したのは丙原建設に行くのを止めたときであり、本件タクシーに乗り西湘バイパスの料金所を通り過ぎたころ、決心がより強くなったと供述し、一月三一日付け検面(乙二〇)においても、犯行の決意を固めたのはタクシーに乗ってからであると供述している。

このように、自己の心情を供述する部分についてさえ、自白の内容には変遷がみられる。

4 本件ナイフについて

(一) 本件ナイフの所持状況

(1) 被告人は、一月二三日付け上申書(乙五七)において、「一二月二六日、旅館乙山に預けた荷物の中から、姉N子の電話番号を書いたメモ書と一緒に、本件ナイフを取り出した。ナイフを持ち歩くときは、ピンクのタオル地のハンカチに包み、ズボンのポケットに入れたり、腹のベルトに差しており、K方では、ハンカチに包んだまま蒲団の下に隠しておいた。二八日午前七時ころ、K方を出るとき、ナイフを部屋の中に置き忘れていたので取りに戻った。」旨供述しているが、公判廷において、本件ナイフを所持していたこと自体を否認し、ポケットに入れていたのはメリケンであると供述している。

ところで、乙山の経営者E子の警面(甲二〇七)によれば、E子は、被告人が荷物の中からメモ書を探すとき、一緒にその場にいて荷物の中身を見ているが、被告人がナイフを取り出す場面を目撃していない。

また、被告人が、旅館に預けた荷物の中からわざわざナイフを取り出したり、K方にナイフを取りに戻った理由ははっきりしない。しかも、ハンカチに包んだとはいえ、鞘のないナイフを作業ズボンのポケットに入れて持ち歩けば、ナイフの先が足に刺さる危険がないとはいえない上、本件ナイフをハンカチに包んで作業ズボンの右ポケットに入れると、柄部がはみ出してポケットの上蓋が盛り上がる状態となり(甲二六添付写真②参照)、被告人がそのような状態で本件ナイフを長時間持ち歩いていたというのは不自然である。

(2) なお、I"検面(甲五五)には、I"は、昭和六三年六、七月ころ、戊野組で被告人と一緒に生活していたとき、被告人が新聞紙か紙に包んで果物ナイフ様の刃物を所持しているのを見た、被告人はナイフを布団の間にしまっていたとの部分がある。

しかしながら、I"は、当該ナイフを手に取ったり、注意して見たわけではないから、刃物が本件ナイフと全く同じものであったかは断言できないとも供述しており、本件ナイフが一般に市販されているもので、特徴があるわけではないことを合わせ考えると、I"の供述は、被告人が本件ナイフを所持していたという自白の裏付けとするには足りないというべきである。

(二) 本件ナイフの形状

被告人は、本件ナイフの形状について、刃渡り、柄部の長さ、四文字の打刻があることなどについては、正確すぎるのではないかとさえ思われる図面を作成している一方、刃体の曲がった状態や柄部の欠損部分など犯行に直接結び付く特徴的形状については具体的に供述しておらず、本件ナイフの形状についての供述には不自然な点がみられる。

(三) 本件ナイフの入手先

被告人は、本件ナイフの入手先について、多数の上申書を作成し、何度も供述を録取されているが、その供述内容は転々と変遷し、捜査官はその都度被告人の供述する入手先について捜査したが、供述内容に一致する事実は判明しなかった。

すなわち、被告人は、一月一二日付け上申書(乙三四)では、「昭和六二年八、九月ころ、J"方で土工をしていた時、同人方の物置小屋の前の小屋に住んでいた身長一八〇センチメートル位で五七、八歳の男からもらった。」旨供述し、一月二三日付け上申書(乙五六)では、入手時期を、昭和六一年の梅雨ころと訂正している。ところが、二月四日付け警面(乙四八)では、「一二月二三日午後二時ころ、有限会社甲原工業を訪ねたが留守であり、勝手口から中に入ると、台所のテーブルの上に果物ナイフが置いてあった。持っていれば何かの時に役に立つと思って、ナイフをとった。」旨の供述に転じ、二月六日付け警面(乙一五)では、「本件ナイフの入手先は話せない。話すことができない理由についても話せない。」と供述し、同日付け警面(乙一六)では、「今まで本件ナイフの入手先について嘘を言っていたのは、本当のことを言えば第三者に迷惑がかかると考えたためである。」旨供述するに至った。さらに、二月七日付け上申書(乙六四)及び二月八日付け検面(乙三九)では、昭和六三年七月ころ、乙田組の流し場で使っていたナイフを盗んだ旨供述している。

このように、被告人が本件ナイフの入手先の供述を変遷させた理由について、田原第二九回証言には、被告人が、これを言うと死刑になりますよねとか、くれた人に迷惑がかかるから言えないと供述していたとの部分があるが、被告人が、犯行の主要部分を詳細に自白していながら、ことさら本件ナイフの入手先について最後まで真実を供述しないというのは不自然であり、右の理由はにわかには首肯し難い。

(四) 本件ナイフの柄部の破損時期

(1) 本件ナイフの左側柄部はリベットの前部から一部欠損しているところ、被告人は、二月八日付け警面(乙一七)において、ナイフが刃体の付け根部分から曲がったときに柄部が壊れたのではないかと思うと供述している。

ところで、自白によれば、本件ナイフが曲がったのは、車両内で被害者の左肩部を刺したときであるから、そのときに柄部が破損したのであれば、柄部の破片は車両内又はその直近で発見されるものと考えられる。しかるに、本件発生直後、被害者の解剖、車両内及び本件現場付近の検索、鑑識活動等がされたにもかかわらず、柄部の破片は、被害者の体内、車両内又はその直近のいずれからも発見されていない。

なお、検察官は、被告人は、本件ナイフの柄部の欠損という特徴的な事項について供述すれば、自分と凶器との結び付きが強まる危険があるため、あえて虚偽の供述をした旨主張するが、このような理由がにわかには首肯し難いことは、本件ナイフの入手先についての供述の場合と同様である。

(2) 検察官は、車両内及び本件現場付近から柄部の破片が発見されなかったのは、犯行前から柄部が欠損していたからにほかならないと主張し、柄部が欠損しているのを見たというKの公判供述は十分信用できるとするとともに、その裏付けとして戸叶鑑定書(甲三八九)を提出する。

同鑑定書に記載された実験結果は、次のとおりである。すなわち、本件ナイフと同種のナイフを二本用意し、その一方の柄部を本件ナイフと同様に破損した上で、両方の刃体を防振ゴムで挟み、刃先から九センチメートルの位置及び刃体後端を万力で固定し、刃体を四五度及び九〇度まで曲げ、復元した角度をそれぞれ測定し、ナイフの柄部に欠損がある場合とない場合とにおける変形状態等を比較したところ、ナイフの柄部に欠損がない場合には、本件ナイフのような柄部の破損は生じず、柄部の下側に亀裂が入って前方左側のリベットが浮き、上方の間隙が拡大する状態となり、他方、ナイフの柄部に欠損がある場合には、柄部に破損や亀裂は生じず、リベットの浮きや上方の間隙の拡大もない状態で、本件ナイフと同様、柄部の欠損部分から折れ曲がったというものである。

しかしながら、右実験は、ナイフの固定の仕方、曲げた角度、荷重の程度等が犯行状況と同じ条件にあるか否かが明らかではなく、右実験結果を基にして、本件ナイフの刃体が曲がったときの状況と比較するのは困難である。そして、前記のとおり、本件ナイフの柄部が欠損しているのを見たというKの供述はあいまいであり、右実験結果をもって、直ちに、その信用性を高めることはできない。

しかも、本件ナイフのリベットや柄部の破断面には磨耗した形跡がなく、破断面や破損により表れたステンレス部分には、埃や汚れの付着などが見られないことからすると、本件ナイフの柄部が長期間にわたって欠損していたものとは窺われない。

そうすると、本件ナイフの柄部が当初から欠損していたとする検察官の主張は、これを裏付けるに足りる証拠がなく、この点に関する被告人の供述はあいまいであって、本件ナイフの柄部が、いつ、どのようにして破損したかについては解明されていないということになる。

以上のとおり、被告人の本件ナイフに関する供述は、その所持状況については不自然であり、入手先については明らかにされてなく、柄部の破損に関してはあいまいであって、いずれもその信用性について疑いを抱かせるものである。

5 本件犯行の態様(殺害方法)について

(一) 被害者の殺害方法について、捜査段階における被告人の供述は、次のとおり変遷している。

被告人は、一月一二日付け上申書(乙三四)において、「ジャンパーの右ポケットからナイフを出して左手に持ち替え、中腰になって刃を下にして握り、被害者の左頸付け根付近を二回刺した。被害者がドアの方に倒れかかったので、左耳上を七、八回突付いた。」旨供述し、一月一九日付け警面(乙六)においても、「前部座席にもたれかかるようにして、被害者に見えないように右手でナイフを取り出して左手に持ち替え、刃を下にして順手に握り、被害者の左頸付け根付近を一回刺した。右ききなので左手で刺すのは心配だったが、中腰になって思い切り刺し、また同じ位のところを刺した。被害者は運転席のドアに背をもたれかかるように逃れた。ナイフを右手に持ち替え、顔や頸を刺した。」旨供述している。

ところが、被告人は、一月三〇日付け警面(乙一一)において、「ナイフを左手で順手に握り、中腰になって左頸付け根付近を一回思い切り刺した。すぐに二回目を刺したところ、頸をねらったつもりが肩辺りに刺さった。今度は深く刺さり、抜こうとしても簡単には抜けなかった。ナイフを右手で刃を外にして逆手に握り、左耳の後ろから上方にかけて四、五回刺した。」旨供述し、二回目にはナイフが肩付近に刺さり、なかなか抜けなかったと供述するに至っている。

さらに、被告人は、一月三一日付検面(乙二〇)において、「ナイフを左手で順手に握り左頸を刺すと、被害者がドアの方へ体を寄せた。ナイフが根元までいかなかったので、これでは死なないと思い、右手に持ち替えて逆手に握り、頭の上から斜めに振り降ろすようにして頸の付け根を狙ったが、少し肩寄りに刺さった。これは深く刺さり、ナイフの根元までいったと思う。慌てて右手で抜こうとしたがなかなか抜けず、右手で手前に思い切り曲げるように引いたが、何かに引っ掛かったようでなかなか抜けず、左手に持ち替えて少し前に押すような感じで抜いたところ、すっと抜けた。ナイフを右手で順手に握り、左側頭部の耳の後ろ付近を四回位突き刺した。」旨供述して、二回目に刺すときにナイフをきき手である右手に持ち替えたと供述を訂正し、その理由として、一回刺したときに被害者がドアの方へ身を寄せた意識があり、左手では刺しづらく、右手を使ったような感触を思い出したと述べるとともに、刃の向きについて詳細な供述をしている。

また、被告人は、二月五日警面(乙一四)においても、「ナイフを左手で順手に握り、刃を体より外側に向けて横にし、左頸付け根を思い切り刺した。次に、ナイフを右手で逆手に握り、刃を外に向けて頸を狙ったが、肩付近に深く刺さった。ナイフが抜けないので、左順手に握り替えて抜いた。ナイフを右手で順手に握り、左耳の後ろから上方にかけて四、五回刺した。」として、同旨の供述をしている。

このように、被害者の殺害方法についての被告人の供述は、一、二回目に左頸付け根付近を狙い、その後に左側頭部付近を四、五回刺したという順序については概ね一貫しているものの、途中から、二回目に刺したときにナイフがなかなか抜けなかったという供述が加わり、さらに、ナイフを左手から右手に持ち替えた時点の供述が変遷するとともに、刃の向き等の供述内容が次第に詳細になっている。

(二) 被害者の刺し方と本件ナイフの曲がり方との関係

被告人は、前掲一月三〇日付け警面、一月三一日付け検面において、二回目に被害者の肩付近を刺したときにナイフがなかなか抜けず、これを抜くときにナイフが曲がったのではないかと思う、その後、被害者の後頭部付近を四、五回刺したが、ナイフが曲がっていることに気付いたのは、本件タクシーから降車して逃走するときである旨供述している。

そして、永田第一三回証言には、加害者が左肩付近をナイフで刺した後、被害者が防御態勢に入ると、ナイフが鎖骨の一部分に引っ掛かって抜けにくくなる可能性があるとの部分があり、右証言部分は、被害者の肩付近を刺したときにナイフがなかなか抜けなかったという自白に符合するものである。

しかしながら、左自白には次のような疑問がある。

(1) 被害者の左肩部の刺切創は、創洞の深さが約九センチメートルであるのに対し、本件ナイフの刃体の長さは一二・四センチメートルであり、創洞の深さと刃体の長さが一致していない。

この点について、永田第四二回証言には、人体はかなり柔軟なので、ある程度の力を加えれば浮き沈みがあり、組織の力、筋肉の収縮力、骨などの状態、被害者の動き、加害者の力の状態などによっては、刃体の長さと創洞の深さが一致しなくても矛盾しない旨の部分がある。

もとより、皮膚の弾性等を考慮すると、解剖の際に計測される創洞の深さが、実際に刺入された成傷器の刃体の長さと一致しないことが起こり得ることは了解し得るものである。しかしながら、永田鑑定人は、本件のように、創洞の深さと刃体の長さにかなりの差があり、さらに、後記のとおり、刃体の終端部分の角が鎖骨に引っ掛かるほど深くナイフを刺入したという状況下を前提としていながら、創洞の深さと刃体の形状、ナイフの刺入状況との関連を合理的に説明しない。のみならず、右の状況下においては、被害者の肺にもっと大きな創傷ができるのではないかとも考えられるという証言部分すら存在する。

(2) 自白によれば、被告人が被害者の左肩部を刺したときにナイフが抜けなくなり、被告人の体の方に押したり引いたりして引き抜いたとされている。

しかしながら、被害者の左肩部の創口はそれほど乱れていない上、永田第四二回証言によれば、鎖骨には刃物が引っ掛かったときに生じるであろう傷跡がなかったことが認められ、右の自白は、被害者の創傷の形状等と矛盾している。

(3) 永田第四二回証言には、ナイフが被害者の体内から抜けにくかったのは、刃体の終端部分の角が鎖骨に引っ掛かったためと思われるという部分がある。

しかしながら、他方、同証言によれば、左肩部の創洞は、皮膚表面からほぼ縦軸に沿って真っ直ぐに入り、皮膚表面から肺の先端部までが約九、一〇センチメートルであることからすると、本件ナイフの刃体の長さに照らし、刃体の終端部分が鎖骨の下まで入り込むという状態にはならないのではないかと考えられる。

また、仮に右のような状態になったとすれば、本件ナイフの柄部には、創傷に接着するなどして被害者の血液が付着し、刃体の曲がった部分と柄部との隙間部分等にまで血液が入り込む余地があるものと思われるが、右部分には血液の付着が認められないのみならず、血痕すら検出されていない。

そうすると、本件ナイフの刃体が根元まで創洞に入ったことを認めるに足りる証拠はないというべきであり、そうであるならば、左肩部を刺したときに本件ナイフが抜けなくなるほど被害者の体内に深く入り、これを引き抜くときに刃が曲がったと思う旨の自白は、客観的合理性に欠けるものといわなければならない。

(4) 自白によれば、被告人は、本件ナイフが曲がったことに気付かないまま、さらに被害者の後方からその左耳付近を四、五回刺していることになる。

ところで、被害者の刺切創は、創洞がいずれもほぼ同一の内下方に向いているが、途中で刃体が著しく曲がったナイフを用いた場合に、同一方向の刺切創が生じるであろうか。

本件ナイフの刃体が柄部の付け根部分から左側に約二八度も曲がっていることに照らすと、仮に被告人が曲がったことに気付かないまま本件ナイフを用いたとすれば、刃先が左方向にそれてしまいそうであり、永田第四二回証言にも、刃体が曲がっていることをある程度認識して刺さなければ、被害者に生じたような刺切創を生じさせるのは困難であるという部分がある。

そうすると、本件ナイフを用いて被害者の刺切創と符合するような創傷を生じさせるには、少なくとも、犯人において、ナイフが曲がったことを認識した上で、持ち方や角度を工夫しなければならなかったはずであるが、自白中にはそのような供述は全くない。

また、刃体の曲がったナイフを用いれば、刃先が脇にそれるなどして、曲がっていないときとは刺したときの手応えが違うはずである。そうすると、被告人が、本件ナイフで四、五回も被害者を刺していながら、刃体が曲がっていることに気付かなかったというのは、たとえ被告人が犯行の際に興奮していたことを考慮しても、極めて不自然であるといわざるを得ない。

右のとおり、本件ナイフの刃体が曲がった時期と被害者に刺切創を加えた時期との前後関係は明らかでなく、この点に関する被告人の供述は不自然、不合理であり、したがって、それを前提とする犯行の態様に関する被告人の供述には矛盾があり、その信用性を強く疑わせるものといわざるを得ない。

6 逃走経路

(一) 本件タクシーからの降車状況等

(1) 被告人は、犯行後、本件タクシーの左後部ドアから降車し、車両後部を回って脇道を走って逃げた旨の自白をしているところ、降車の仕方についての自白は、次のとおり変遷している。

すなわち、被告人は、一月一二日付け上申書(乙三四)において、左後部ドアのボッチを上げてドアを手と足であけ、外に逃げたと供述し、一月一九日付け警面(乙六)でも、後部ドアのロックを開け、ドアを体当たりするようにして開けて逃げたと供述している。ところが、一月二〇日付け警面(乙七)においては、運転手が少しドアを開けてくれていたのではないかと思う、ドアのコックを指で引いて、わりと簡単に車から出ることができたと供述し、二月三日の実況見分でも、左後部ドアのコックを引いてドアを開け、外に出てドアを閉めずに逃げた旨の指示説明をしている。

(2) 右のとおり、被告人は、左後部ドアの取っ手を指で引いて、同ドアから降車し、車両後部を回ったと供述しているが、同ドアの取っ手、同ドア付近及び車両後部付近には血痕がなく、他方、脇道に入ってから、犯人が落としたのではないかと思われる血痕が残されている。

ところで、犯人が車両内だけで被害者を刺したとすれば、犯人に被害者の血液が付着するのは車両内であることになり、そうであるならば、犯人の着衣等に付着した血液は、降車地点や車両後部など逃走の始点とされる部分にも滴下する余地があるものと考えられる。しかるに、本件現場付近では、右の部分には血痕がなく、逃走途中の脇道に入ってから血痕が存在しているのであり、被告人の自白は、右のような血痕付着状況を合理的に説明するものとはいえない。

なお、検察官が、論告において、脇道の血痕は被害者に起因すると主張するに至ったことについては、前記のとおりである。

(二) 被告人の帰宅時刻

(1) 被告人は、一二月二九日午前三時三〇分ころK方に着いた旨自白し、逃走経路を詳細に供述しているが、逃走経路は迂回しており、本件現場からK方まで約三時間三〇分を要したこととされている。

この点について、被告人は、一月三一日付け検面(乙二〇)において、通常なら一時間半位で帰れる距離だが、休んだり、隠れたり、寄り道したりして時間が二倍位かかった気がすると供述しているが、これらを加味したとしても、わざわざ迂回した逃走経路を通り、通常よりはるかに時間がかかっていることには疑問が残る。

(2) K"証言には、K"は、一二月二九日午前二時から二時三〇分ころまでの間、白山中学校体育館前で被告人と似た服装の小柄な男性を見た、その男性は疲れている感じで右手を塀についてもたれていたとの部分がある。

しかしながら、K"は、深夜、自転車で通行しながら男性を見たというものであり、男性の顔は見ておらず、男性は帽子をかぶっていなかったとするなど、その識別状況は不十分であり、右証言を自白の裏付けとするには足りないというべきである。

7 着衣の血痕付着状況、洗浄方法

(一) 被告人は、一月二〇日付け警面(乙七)において、着衣の血痕付着状況につき、「防寒ジャンパーの左袖口に、手をつたって流れた血が付いていた。特に、掌に二センチメートル位の円形になった血の跡が付いており、手の甲の袖口の上方にもあり、両腕にも血が飛び散った跡が点々と見られた。」旨供述し、着衣を洗浄した状況につき、「K方の流しで手を洗い、六畳間の炬燵に入って雑巾で防寒ジャンパーの袖口から腕の部分を拭き、汚れた雑巾を洗うということを五回位繰り返した。酒を少し掌に出し、指ではたくようにして血の付いた場所にしみ込ませ、雑巾でこすった。」旨供述している。

ところが、被告人は、一月二七日付け上申書(乙四一)では、防寒ジャンパーの左袖口の表と裏に三センチメートル×一センチメートル、右袖口の表に二センチメートル×三センチメートル、表面にすれたように血が付着していたなど、袖口の血痕付着状況について微細にわたって供述するとともに、初めて、戊田荘の風呂場横の流し場でジャンパーを脱いで袖口を二〇分位水洗いした旨の供述をし、さらに、K方の流しでジャンパーを脱いで袖口を一〇分位石鹸で揉み洗いした旨の供述をする一方、両腕、胸などには目につく血は付いていなかったように思うと供述している。

また、被告人は、一月三〇日付け警面(乙一二)においても、「戊田荘の外にある共同洗面所で、防寒ジャンパーを脱いで両方の袖口を二〇分位水洗いした。さらに、K方の流しで、ジャンパーを脱いで両袖口を石鹸で一〇分間位洗った。両腕の部分にも血が付いていてはいけないと思い、雑巾で拭いた。」旨の供述をしている。

他方、被告人は、一月三一日付け警面(乙一三)では、「両腕の部分に血が点々と飛び散っていたと思ったが、実際には、汚れであったり、共同洗面所で袖口を水洗いした時に飛び散った水であり、雑巾で拭き取って始末した。」旨供述している。

このように、着衣の血痕付着状況及び洗浄方法についての自白は、転々と変遷し、結局のところ、それほど多くの血痕が付着していなかったとされるとともに、洗浄方法が長時間で丹念なものとなっている。

(二) 被告人の着衣等に血痕が付着していない点について

前記のとおり、車両内及び本件現場付近の血痕付着状況にかんがみると、被告人が犯行後着衣を着替えたことが認められないにもかかわらず、着衣等に全く血痕が付着した痕跡がないのは極めて不自然である。

しかも、自白によれば、ジャンパーの袖口部分にわずかに血痕が付着したというだけであり、その程度の血液の付着によって、犯人の逃走経路と思われる脇道に四三・五メートルにもわたり被害者の血液が滴下しているという状況を合理的に説明することは困難である。

(三) 側溝で手を洗ったという自白について

被告人は、松田署における取調べでは、側溝で手を洗ったことについて何ら供述していない。

ところが、被告人は、一月二〇日付け警面(乙七)において、タバコ屋の前に六、七〇センチメートル位の幅の溝で、水が流れている場所があり、その溝に降りて水の流れをまたぎ、そばにあった土を石鹸がわりにして手に付いている血を洗い落としたと供述している。さらに、被告人は、一月三一日付け検面(乙二〇)では、タバコ屋の脇を流れる小川のような側溝に飛び降り、砂や泥と一緒に水を汲み上げ、手をこすって何度か洗ったと供述し、二月三日の実況見分において、小田原市《番地省略》丙野煙草店前の排水溝を指示し、ここで手を洗った旨説明している(甲二六)。

しかしながら、被告人が指示した排水溝は、幅が約二メートル、歩道までの高さが約一・五二メートル(排水溝に沿って斜めに測定した高さ。排水溝の側面には、歩道から三二センチメートル下に幅一〇センチメートルの足場がある。)であり、身長一五三センチメートルの被告人が、深夜単独で右排水溝に降り、その後歩道に上がるという動作をするのは容易ではないと思われるが、その時の状況は何ら具体的に供述されていない。(なお、甲二六添付写真によれば、被告人は、捜査官に支えられながら排水溝に降りている。)

また、排水溝の周囲の歩道、コンクリート、岩などに血痕が付着していたとの証拠はない。

しかも、排水溝の水の深さは、実況見分時には約八センチメートルあり、およそ水の流れをまたぐという表現とは合致しない。

これらの点に照らすと、側溝で手を洗ったという供述は、にわかに信用することができない。

8 小括

以上のとおり、被告人の自白は、被害者の殺害態様といういわば犯行の核心部分において矛盾がみられるほか、多くの重要部分について変遷しているだけでなく、その内容に不自然、不合理な点が極めて多い。また、主観的な認識や、記憶が混乱するとも思われない事項についても供述が変遷し、これらが単なる記憶違いを正したものであるとは考え難い。しかも、松田署における供述内容と小田原署における供述内容との間にくい違う部分が多くみられ、小田原署による捜査の進展に伴って新たに判明した事実に沿って、供述内容が訂正され、次第に詳細になっている部分もあり、捜査官の誘導、暗示により供述内容が変遷したのではないかという疑問を払拭することができない。

三 体験供述の有無

1 自白には、「被害者の頸を刺し、被害者が叫び声を上げながら運転席のドアに倒れかかったとき、背筋にゾーッという寒けが走り、思わず後部座席に腰を降ろしてしまった。」「逃げるとき、被害者をみると、体を前に起こし、タクシーから出て追いかけて来るような仕種をしていた。」「交番の赤燈が見え、びっくりして立ち止まり、蒲鉾店の手前を右折した。」など、迫真的な供述が随所に存する。

しかしながら、これらの供述は、いずれも抽象的であったり、その性質上、証拠による裏付けを要するものではなく、犯人でなければ供述できないものとはいえない。

また、被告人は、タクシー会社だと思っていたところが自動車の修理工場だったと供述したり、詳細かつ具体的な逃走経路を供述しているが、これらの供述は、周辺に土地勘さえあれば供述することが可能なものである。

したがって、これらの供述をもって、直ちに自白の信用性を高めるものとはいえない。

2 他方、自白には、次のとおり、証拠上明らかな事実についての説明が欠落している。

(一) 何故、脇道の血痕が本件ナイフの発見場所まで続かず、途中で途切れているのか、路上に運転日報が放置されていたのかについては、客観的状況からは解明されていないものであるところ、これらについての供述はない。

(二) 刺傷行為の途中でナイフが曲がったというのは特異な体験であると思われるのに、被告人は、本件ナイフが曲がったことに気付いた時期について、一月三〇日付け警面(乙一二)で供述するまで、何ら供述していない。

3 さらに、自白には、小田原事件と、その三日後に発生した松田事件とのつながりについて、被告人の心の動き等を供述する部分はない。すなわち、被告人が小田原事件の犯人であるとすれば、その後どのような気持ちで過ごしたか、何故逃げずに小田原周辺にとどまり、知人方を訪れていたのか、小田原事件を犯したことと松田事件を犯したことはどのように関連するかなどにつき、被告人の心情等を具体的に供述した部分はほとんど存在しない。

四 自白と客観的証拠との整合性

1 被告人の自白は、本件ナイフを凶器として使用し、犯行後これを投棄したこと、被害者を刺した部位、刺した時の姿勢、刃の向き等について、犯行の客観的状況と概ね一致している。

しかしながら、本件ナイフは、犯行発覚直後に発見されており、被害者の刺切創の状況についても、被害者の解剖結果等により、既に捜査官が把握していたことがある。

2 林崎正美の警面(甲九一)、鑑定書(甲九〇)及び捜査報告書(甲八一)によれば、平成元年一月二五日、本件タクシーの乗車地点や走行経路についての自白に則して自動車を走行させ、その走行距離、所要時間等を実測したところ、右実測に供した自動車のタコグラフのチャート紙のパターンは、本件タクシーのタコグラフのチャート紙のパターンと概ね合致したことが認められる。

しかしながら、既に、同月二三日には戸叶鑑定書(甲八五)が作成されていることからすると、捜査官は、右実測前に、本件タクシーの走行距離や所要時間を把握していたというべきであるから、本件現場からの所要時間から逆算すれば、本件タクシーの乗車地点を算出し得るものである。また、本件タクシーが西湘バイパスを経由したことも、予め捜査官が把握していたことである。

3 このように、自白には、一見具体的で客観的証拠と符合している部分が多く含まれているようではあるが、予め捜査官の知り得なかった事項で、自白に基づいて捜査した結果、客観的事実であることが確認されたというもの(いわゆる秘密の暴露に相当するもの)は見当たらず、むしろ、捜査の過程で判明した客観的事実に符合するように供述が訂正されていることが窺われる。

そうすると、自白に客観的証拠と符合する部分があることをもって、直ちに、自白が信用性を有するものということはできない。

五 裏付けとなるべき物的証拠の有無

1 サンダルについて

被告人は、一月二四日付け各上申書(乙五八、五九)において、「一二月二八日、K方を出るときはサンダルを履いていたが、犯行後、K方に帰ったときはスリッパを履いていた。逃げる途中、煙草屋の前のどぶ川に入り、水が深かったのでサンダルや靴下が濡れた。白山中学校の横の岩の穴の中に隠しておいたスリッパに履き替え、サンダルをゴミ捨て場に捨てた。」旨供述し、一月二九日付け警面(乙一〇)において、「一二月二六日、K方に行く途中、五百羅漢保育園の前、白山中学校体育館側の道路に捨ててあったサンダルを拾い、これに履き替えた。サンダルの指先や踵は一部はがれていた。今まで履いていたスリッパを五百羅漢保育園のそばの穴の中に隠した。」旨供述し、同日付け上申書(乙六一)でサンダルの図面を描いている。

そこで、捜査官は、被告人が投棄したというサンダルを捜索したものの、発見されなかった。

ところで、被告人は、捨ててあったサンダルに履き替えた理由について、スリッパは足先が蒸れるからであると説明しているが、ごみ捨て場から一部はがれているサンダルを見付けてこれに履き替え、自分が履いていたスリッパをわざわざ洞穴の中に隠したというのはいかにも奇妙であり、犯行後、再びスリッパに履き替えたというのもまた不自然である。

これに加えて、角田要二証言によれば、平成元年二月三日の実況見分の際、捜査官は被告人に履物を履き替えた場所の指示を求めず、被告人も当該場所を指示しなかったこと、前記のとおりサンダルが発見されていないことを合わせ考えると、スリッパをサンダルに履き替え、犯行後サンダルを投棄してスリッパに履き替えたという自白は、極めて疑わしいというべきである。

なお、L"の警面(甲三八四)によれば、白山中学校西側の体育館裏の西側道路脇は、被告人の供述どおり、犯行当時、事実上ごみ捨て場になっていたことが認められるが、被告人が付近の地理に精通していれば、ごみ捨て場の位置は知り得たはずであるから、右事実をもって、スリッパをサンダルに履き替えたことなどについての自白の信用性が補強されるものとはいえない。

2 ハンカチについて

被告人は、一月二〇日付け警面(乙七)において、一二月二九日の朝、顔を洗ってハンカチで拭くとき、ハンカチに血が付いているのに気付いたので、ハンカチを網状の覆いのある排水溝に網の穴から押し込んで捨てた旨供述している。

そこで、捜査官は、被告人が指示する排水溝を一四〇メートル位の範囲にわたり川への流入口まで捜索するなどしたが、ハンカチは結局発見されなかった。

この点について、捜査報告書(甲三二七)には、排水溝には二〇数センチメートルの増水の跡があったため降雨量調査をしたところ、捜索の前々日に多量の雨が降ったことが判明し、そのためにハンカチが流されてしまったのではないかと考えられるという記載がある。しかしながら、排水溝を捜索した時点において、排水溝の水の深さは、浅いところで二センチメートル、深いところで五センチメートルにすぎず、流れはちらちらという状態だったものである上、増水の跡が前々日の降雨によるものであるか、前々日の降雨により水位がどの程度上がったのかは明らかではない。

いずれにせよ、ハンカチの未発見理由は、直ちに首肯できるものではなく、捜索に従事した巡査部長岡別府でさえ、未発見理由として、被告人がハンカチを排水溝に投棄しなかったということも考えられると供述している。

さらに、岡別府第一二回証言及び捜査報告書(甲三二六)によれば、ハンカチの入手先や入手方法についての被告人の供述も裏付けがとれなかったことが認められる。

3 小括

以上のように、投棄されたサンダルやハンカチについては、客観的証拠による裏付けが欠けており、しかも、それが発見に至らなかった理由について、首肯すべき事情が認められない。

加えて、これらはいずれも、所持金や本件ナイフの入手先と同様、もともとはKの供述に由来するものであることにかんがみると、取調官からKの供述を基にして執拗に追及され供述に窮した被告人が、殊更に虚偽の供述をしたのではないかという疑いを払拭することができない。

六 まとめ

以上説示のとおり、被告人の自白には、秘密の暴露と見るべきものはなく、その供述内容は、犯行の核心となる部分について矛盾し、不合理な点があるほか、凶器である本件ナイフの入手先等の重要部分について、単なる記憶違いや不確かさ等に起因するものとはいい難い変転があり、随所に不自然、不合理な点が認められる。また、Kの供述に由来する事項については、客観的裏付けに欠ける上、架空の財布盗について虚偽の供述をしている部分すら存在する。

これに、前記認定の被告人の供述経緯を合わせ考えると、被告人は、取調官に執拗に追及された結果、その場を逃れるために取調官に迎合し、あるいは自暴自棄になって、虚偽の自白をしたのではないかとの疑いを否定することができない。

以上の次第で、結局、被告人の自白に信用性があるものと認めることはできない。

第八結論

以上によれば、本件全証拠をもってしても、被告人と犯行を結び付けるに足りる物的証拠はなく、しかも、Kの供述及び被告人の自白は、いずれも信用性が認められないのであるから、被告人が小田原事件の犯人であると認めることには合理的な疑いが残るといわざるを得ない。

したがって、小田原事件の公訴事実については、犯罪の証明がないことに帰するというべきであるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人は無罪というべきである。

【量刑の事情】

本件は、被告人が、知人のPに借金を申し込んだが断られたため、暴行を加えて金員を強取した上、宿舎に放火し、Pを焼死させて殺害したという事案である。

強盗殺人については、Pに対し、左顔面をメリケンで数回殴打し、カッターナイフで顔面、頸部等を切り付けるなど、一方的に執拗な暴行を加えたものであり、右暴行により、Pは鼻腔内の出血等のため半窒息状態となり、長時間経過すれば生命に危険が生じるほどの傷害を負っている。しかも、被告人は、引き続き宿舎に放火し、酒に酔い身体に相当の損傷を受けて逃げ出すのが困難となったPを焼死させ、貴重な人命を奪ったものであり、極めて残虐、非情な犯行である。

また、放火については、甲野建設や宿舎に居住する作業員に総額約二四一万円の被害を被らせたのみならず、宿舎付近が住宅密集地域で延焼の危険性が高かったことに照らすと、人の寝静まった深夜、折しも新年を迎えた矢先に付近住民に与えた恐怖や不安は測り知れない。

さらに、被告人は、金銭的欲望を追及して金員を強取し、これを隠蔽するために、Pの火の不始末で火災が生じたかのように見せ掛けようとしたものであり、犯行の動機はひとりよがりで狡猾である。

このように、被告人は、重大な結果を引き起こしているにもかかわらず、あくまで犯行を否認して不合理な弁解に終始し、第三者に犯行を押し付けようとするに至っており、遺族に対して何ら慰謝の方法を講じていないばかりか、反省の言葉すらない。

他方、被告人は、昭和四二年に暴行罪により罰金五〇〇〇円、昭和四九年に道路交通法違反の罪により罰金五万円に処せられたほかには前科がなく、職場を転々としながらも生業についていたが、年末に解雇されて職や住居を失い、所持金のほとんどを費消し、数回野宿をして寒さが身にしみ、何とか野宿を避けて無事に正月を過ごす金が欲しいという切羽詰まった気持ちからPの居室を訪れたものであり、当初から犯行を計画していたわけではなく、酒に酔った勢いも加わって本件を敢行したことにかんがみると、極刑に処すべき事案とはいえず、無期懲役刑に処するのが相当であるが、さらにこれを酌量減軽すべき特段の情状は認められない。

よって、主文のとおり判決する。

(求刑 死刑)

(裁判官 岡準三 裁判官 森田浩美)

裁判長裁判官蘒原孟は転補のため署名押印することができない。裁判官 岡準三

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